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2024.06.26
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カテゴリ:反戦平和

「戦争は悲惨・・・」「戦争は繰り返してはならない・・・」 「戦争反対・・・」いつまでも、そんなレベルの進歩の無い日本の平和運動って、何をしてきたんだろう・・・それは何も語っていないのと同じではないの??  2024-6-26   はんぺん

今回の、朝日新聞や時事通信の記事・・・このような戦争の体験談は、貴重だ。子々孫々に語り伝えて行かねばならない内容が、いくらでもあるからだ。しかし・・・しかし、だ!

 

この記事には、決定的に欠けているものがある!!!何か??? 皆さんなら、わかるだろう・・・??

 

「次の戦争を止め、平和をつくるため、悲劇を風化させてはいけない」(本文)

「政府には、手段は問わないから、とにかく平和でいれるよう取り組んでほしい」(本文) という(当たり前)と思われる部分だが・・・これが、結論だとしたら、情けない!!!・

 

(戦争の悲惨さ)をいくら強調しても、そこから得る教訓は、出てこないから!

戦争が起こされた原因、戦争責任の問題が、欠落しては、この記事の価値は、ゼロに等しくなる・・・と思うのだ。

 

そう、ヒロヒト(昭和)の戦争責任の問題が、いつもカットされているのだ・・・これが、反戦記事? ・・・冗談ではない・・・・

 

戦争は、悲惨だ、やるべきではない・・・・なんて、100回叫んでも、1,000回叫んでも、戦争責任の問題を回避していては、いつまでも(戦争)には、迫れない・・・違うだろうか??

 

1941128日、ヒロヒト(裕仁=昭和天皇)による「太平洋戦争 開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)」戦争を宣言した。

*********************

開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)」

詔書。天佑を保有し万世一系の皇祚を践(ふ)める大日本帝国天皇は昭(あきらか)に忠誠勇武なる汝有衆に示す。

  朕、茲(ここ)に米国及び英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司は励精職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心国家の総力を挙げて征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ・・・。

*********************

・・・・というわけだ。 この戦争により、300万の日本人、2,000万のアジア民衆の命が、奪われたという・・・その真実を、マスコミは、戦後、取り上げて、戦争責任を追及してきたのか??

 

戦端は、昭和16(1941)128日に、日本海軍がハワイ真珠湾に集結していたアメリカ太平洋艦隊へ総攻撃をかけた「真珠湾攻撃」によることは、知られているが、天皇の(戦争犯罪=大罪)については、いつもスルーされてきている

 

天皇制を利用して、戦後の日本統治を企んだ連合軍(GHQ)の「お情け」で、ヒロヒトは、(命拾い)して、寿命を全うすることができた。(憲法第一章 天皇)

これが、戦後の平和運動にとっての(ガン)となる・・・歴史に真摯に向き合う立場からは、到底、納得できない現実だった。

 

莫大な死者の怨念を 皇室は感じなければならないし、戦後すぐに、天皇制度は、解体されるべきだった。

あまりにも、天皇制の洗脳が、徹底されすぎたために、その(洗脳)をマッカーサーが悪用することになり、それが、戦後の天皇制存続へ、つながっていく。

 

皆さんは、どう思われるか?   はんぺん

 

――――――――――――――――――――――――――

「泣く子は入るな」追い出され 風化させない、語り継ぐ85歳 祖父母、弟妹失った喜屋武さん・沖縄慰霊の日  2024-6-23   時事通信

 20万人が犠牲になった沖縄戦で、当時6歳だった那覇市の喜屋武幸清さん(85)は、祖父母や幼い弟妹を失った。

 

「次の戦争を止め、平和をつくるため、悲劇を風化させてはいけない」と訴える。

 マリアナ諸島・テニアンで生まれた喜屋武さんは4人きょうだいの長男。戦争が始まり、父を残して祖父の出身地、沖縄県に引き揚げた。

 

 住んでいた那覇市にも戦火が及び、祖母が艦砲射撃の犠牲に。沖縄本島南部に逃げる途中、日本陸軍の壕(ごう)に身を寄せたが、「われわれを守るための日本兵が奥に、避難民は入り口に座っていた」と憤る。

 

 近くで戦闘が始まり、さらに避難を余儀なくされた。母は、当時0歳だった妹を抱き、23歳の末の弟を背負った。二つ下の弟は母のもんぺにつかまっている。本島南端の糸満市まで歩いた。「糸満の海は軍艦で埋め尽くされ、水平線が真っ黒だった」と喜屋武さん。激しい艦砲射撃を受け、祖父を失った。

 

 6月、同市摩文仁にたどり着いた。海岸近くの壕に入ろうとすると、住民の中に隠れていた日本兵が母に銃を突き付けて言った。「泣く子は入れない」

 「上の2人は泣きませんから助けてください」。母は懇願し、「母ちゃん、母ちゃん」と泣きすがる末の弟と妹を連れて壕を離れた。1人で戻ってきた母は、壕の入り口をふさぐように石を積んだ。

 

 3日ほど後、壕の入り口から米兵が「デテコイ、デテコイ」と呼び掛け、最初に飛び出した喜屋武さんを抱き上げて水筒の水を飲ませた。「命の水」だった。幼い喜屋武さんには、米兵が天使に、日本兵が悪魔に思えた。

 

 戦争が終わっても、「弟妹はどうなったのか、おふくろを悲しませると思うと聞けなかった」と喜屋武さん。苦労がたたったのか、母は喜屋武さんが高校1年生の時、心臓病で亡くなった。38歳だった。

 

 喜屋武さんは今でも、弟と妹が生きているのでは、との希望が捨てられないという。「誰かに助けられてどこかで大きくなっていやしないか。空想、小説みたいな話だけど、いつも心の中にある」と語る。

 

 今、喜屋武さんは年に数回、修学旅行生の前で体験を語っている。「あなたが話さないと、沖縄戦がなかったことになるよ」。母が背中を押してくれているように感じるという。 

―――――――――――――――――

 

日本兵に「何度も脅された」 激戦地、糸満市での体験語る―88歳の仲間さん・沖縄慰霊の日  2024-6-22  時事通信 編集局

 太平洋戦争末期の沖縄戦で、最後まで激戦が続いた沖縄県糸満市。23日の沖縄慰霊の日を前に、同市の仲間進栄さん(88)が79年前を振り返り、「日本兵に何度も脅された」と語った。

 

 1945年4月、米軍が沖縄本島に上陸。仲間さんの母や妹らは本島北部へと避難した。仲間さんは当時9歳。祖父母と共に最南端の糸満市に残ったが、戦火を避けるため、家を出て近くの斜面に横穴を掘ってつくった「ガマ」で生活するようになった。

 

 そんな生活が続いたある日、日本兵がガマに入ってきた。「出て行け。ここは私たちが使う」。銃を構えて言い放ち、仲間さんらを追い出した

 

 住むところを失った仲間さんらが再びガマをつくると、別の日本兵が「ここは危ない。別のガマに逃げた方がいい」と言ってきた。言葉に従ってガマを出た後、様子を見に戻ると、複数の日本兵が中で談笑していた。

 

 日本兵にガマを追われたのはこれに限らない。

戦況が厳しくなると、沖縄本島南部に逃げ込む日本兵が増え、何度も脅され、だまされた。最後は海辺の鍾乳洞に逃げ込んだという。

 

 ある夜、鍾乳洞の外で激しい爆発音がした。外に出てみると、すぐそばに迫った米戦艦が近くに潜む日本兵を攻撃していた。

 

 ふんどしを白旗代わりにして降参しよう。そう思った矢先、日本兵が「自決しよう。捕まったらひどいことをされるぞ」と銃を渡してきた。信用できるか―。何度もだまされた仲間さんらは制止を振り切って白旗を掲げ、米軍に保護されたという。

 

 つらい記憶を振り返り、「二度とあんな悲劇は見たくない」と語った仲間さん。「政府には、手段は問わないから、とにかく平和でいれるよう取り組んでほしい」と切に願った。






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最終更新日  2024.07.10 12:12:09
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