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2024.08.11
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カテゴリ:社会問題など

本音を語れない不自由さを感じる、いびつな社会・・・(天皇制)(五輪)も、批判タブーの戦後日本! 長いモノに巻かれろ・・・で、明るい日本の未来は、ありえない!!   2024-8-8   はんぺん

 新聞・テレビの(なんでも五輪)の煽り方は、異常だ! それに踊らされている日本は、平和だ・・・なんて喜んでいて良いのか? 

 

テレビ・新聞などのマスコミが、今や、世論形成に大きな影響力を持ちつつある。良い意味でも、悪い意味でも・・・

 

特に、マスコミ(テレビ局・新聞社)を大独占資本が、買取り、世論形成に大きな影響力を及ぼしているのが、アメリカだ。

 

リベラル系、保守系の新聞社・テレビ局が、乱立し、大統領選挙などにも、大きく関与している・・・・

保守的な人間は(自分たちの)保守派のテレビ・新聞しか見ない、リベラルな人間は、やはり(自分たちの)リベラルのテレビ・新聞しか、見ない・・・という。

こうして、分断が、進んでいく・・・という構図だ。

 

独占的大資本が、マスメディアの買収に、本格的に乗り出し、国民を煽り立て、一気に、変革を企てることも、可能なのである。

 

皆さんは、どう思われるか?   はんぺん

――――――――――――――――――――――

「そんなにメダル、メダル言うんだったら、自分で泳いでみればいい」 超ド級の「問題発言」を発した女性アスリートの本心  2024-8-9  デイリー新潮編集部

メダルに執着しすぎる日本人

 

1990年代、日本水泳界を牽引し2度の五輪に出場した​千葉すずさん​メダルに執着しすぎることにストレートに異を唱えバッシングを受けた。二十数年経ったいまメディアや視聴者はどう変わっただろうか――

 

 パリ五輪に限ったことではなく、近年、日本人アスリートの「コメント力」の高さには目を見張るものがある。社会人経験がそう長くない、あるいはまったくないにもかかわらず、彼らは実に堂々と自分の気持ちを口にする。そのコメントは応援してくれる人、スポンサーその他関係者が決して嫌な気持ちにならぬように十分に配慮されている。

 

 本心では同じ質問を繰り返したり、妙に番組に寄せた言葉を誘導しようとしたりするメディアにイライラすることもあるのだろう。

 

 実際に、そんな本音を口にしたアスリートも過去、いなかったわけではない。

 

 有名なのは、競泳の女子日本代表だった千葉すずさんの言葉だ。1996年、「ニュースステーション」(テレビ朝日系)に出演した彼女は、アトランタ五輪に関するインタビューで、日本人がメダルに執着しすぎることをストレートに批判して物議を醸した。

 

放送禁止的な表現が含まれていたこともさることながら、ある意味で真理を突いていただけに、世の反発は大きかった。まだSNSが存在していない時代だったので、マスコミが主戦場となって彼女への批判が盛り上がりまくった。今で言う「大炎上」である。

 

 戦後のさまざまな問題発言を振り返った一冊『問題発言』(今村守之著)は、この発言についてこう評している。

 

「千葉の気持ちもわからないではない。普段はさしたる関心ももたないくせに、こういうときだけ躍起になる。しかも期待に応えられなかったら、一気に叩く。

 

また『スポーツ選手は爽やか(でなければならない)』などという勝手なイメージの押しつけも、千葉にとっては鬱陶しかったのではないか。

 

この発言は、それを拭い去るには十分な役割を果たしたと思われるからだ。 そういうイメージを強調し固定化したのは明らかにマスコミである」

 

実際、やってみて下さい

 

 放送前の段階で、彼女の競技はすべて終わっていた。放送禁止用語の部分だけが有名になっているが、同番組で彼女は他にも刺激的な言葉を口にしている。個人は決勝進出がかなわず、団体での4位がベストという成績。メダルへの期待もあっただけに、期待外れという評価もあったようだ。

 

「実際やってみて下さい、皆さん」

「そんなにメダル、メダル言うんだったら、自分で泳いでみればいいんですよ」

 あまりに強い言葉だったため、彼女は強い批判にさらされることとなる。

 

「感動をありがとう」への違和感

 

 数少ない擁護派は人気コラムニストのナンシー関さんだった。彼女は雑誌「ナンバー」誌上で次のように述べている。

 

「千葉すず、嫌われてるらしいではないか。どう転んだって好かれるのがオリンピック選手である。思い返してみてほしいが、かつて嫌われたオリンピック選手がいたか(中略)。

   ちょっとやそっとの事は美談に変換される。オリンピックはそれほどの浄化作用を有しているのだ。絶対正義だから。そんな中、千葉すずは叩かれている。よっぽどの事である。(中略)

 

 千葉すずが受け入れられなかった理由は、視聴者(本来はもちろん観戦者であるが)が勝手につくった『感動をありがとう』に着地するはずの物語に乗ってくれなかったからである感動という快楽を享受というより貪(むさぼ)るためにつくった物語に、千葉すずは収まってくれなかったのだ。(中略)

 

 要するに『私のステキなアトランタ物語を邪魔するなんて許せない。せっかくキモチよかったのに、キーッ』ということである。(注・千葉すずは)そんなチンケな物語に乗ってやる必要などこれっぽちも無い」

 

 メディアや視聴者の勝手な予定調和的「感動ストーリー」に協力なんかしなくていい、とナンシーさんはいうのだ。四半世紀も前のコラムながら、その指摘は今でもそのまま通じるものだろう。

 

千葉さんの肉声

 千葉さん自身は当時の騒動をどう捉えていたのか。騒動から5年後、発表した著書『すず』(生島淳氏との共著/写真・藤田孝夫)には、彼女の本心が語られている。

 

「いまでも、同じことを言う。間違いない。メダルを獲るのは、私なんです。期待するのも楽しむのも結構。でも、その期待を、私に求めて、それで結果が悪い時にいろいろ言うのは、やめて欲しいし、筋違いです。

 

そんなにメダル欲しいなら、自分でやったらええねん。自分でやってみたらええ、っていうのは、ひょっとして、あなたには出来ないから、黙ってなさい、というように受け取られてるのかもしれないけど、それは違う。

 

 メダル、メダルいうんやったら、自分で泳いで獲ればいい。どんなにつらいか大変か、分かるから。泳げるものなら、泳いでみい、ということ

 

 アトランタ五輪の直後には、メダル獲得がかなわなかったことから、「オリンピックを楽しみたい」という大会前のコメントまで蒸し返され、批判の対象となっていた。これについては次のように語っている。

 

「楽しみたいっていうのはですね、水泳の合宿というのをご覧になれば分かると思うんですが、本当に辛いものなんです。私が何もしないで速いと思ったら大間違いです。練習するから、速いんです。オリンピックとなったら、限界まで追い込まないといけないし、もし合宿とかが楽しくなかったら、それはそれは辛いことになるんです」

 

 千葉さんの問題提起の効果もあっただろうか、今日ではメダルを獲れないことを責めるような論調はほとんど見られなくなってきた。一方でナンシーさんが指摘した、「感動をありがとう」ストーリーから逸脱した者への目は依然として厳しい。

 

マスコミの力は明らかに衰えたが、匿名の人たちが過剰なまでに選手の言動に厳しい目を向け、思うままに注文を出せるようになった。その声はSNSやニュースのコメント欄などを通して選手に直接ぶつけられている。

 

「号泣」が注目された柔道の阿部詩選手は、会見でSNSのコメントについて触れて、「温かい言葉が人としてはうれしいかなと思いました」と語った。

 千葉さんの頃よりもさらにアスリートたちが習得すべきスキルが増えてしまっているのかもしれない。

 

デイリー新潮編集部

 

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五輪報道にはうんざり  2024-8-9  七詩さんのHP

https://plaza.rakuten.co.jp/aisya96/diary/202408090000/

 

たぶん世の中には別の感覚の人も多いと思うのだが、個人的な感想ということでご容赦いただきたい。

はっきりいって五輪報道にはうんざりしている。

 

日本選手のメダルラッシュと盛り上がり、選手の親兄弟や生い立ちを紹介し、感動物語にしたてる。

そして選手の地元ではどうやって集めたのか地域の人々が集まって大画面の前で一喜一憂する。

 

そして知り合いですらないような近所のおばちゃんまでがこれからも応援しているよとマイクの前で言い、スタジオでは感動をもらったとかいって盛り上がる。感動をありがとう…と。

 

それにしても、どっかの誰かが東大理三に合格したような場合、知り合いでもない人が感動するのだろうか。そんなことはまずない。

ノーベル賞受賞とか、国際的コンクール優勝とか、かなりすごい快挙であっても、称賛はするが、感動をありがとうというのとは違う。

 

それなのにオリンピックではなぜ感動をありがとうになるのだろうか。思うに、他のコンクールや競技大会などとは違い、そこでは国家というものが介在するからではないか。

 

選手は日本代表として試合に臨む。これを心理学ではどう説明するのか知らないが、国家が介在することによって、日本選手は自己の延長となり、自分の家族のように自国の選手を応援する。

 

だから日本選手が活躍すると、報道は歓喜でもりあがり、感動をありがとうの大合唱になる。その背景には選手=日本国家=日本国民である自分という一種のフィクションがある。そしてそれはあくまでもフィクションである。

 

戦前の時代、そして戦後の復興途上の時代ならともかく、今のオリンピックではそうしたフィクションはかなり後退しているのではないか。

 

今は昔だが、ある水泳女子選手が「そんなにメダル、メダル言うんだったら、自分で泳いでみればいいんですよ」と言ったことがあったが、これは失言ではなく本音なのだろう。

 

この発言は、選手=日本国家=日本国民というフィクションをぶちこわしており、だからこそ当時は失言とされた。

こうした発言をする選手はその後はいないのだが、若い選手をみていると、「日の丸を背負って」とか「国民の期待に応える」といった感覚は薄れているようにみえるし、それでよいのだと思う。

 

選手も稀有な才能と努力を別にすれば普通の若者であり、日の丸戦士でもなければ武士でもないのだから。

そしてオリンピックを見る側である我々も、日本選手の活躍と感動物語だけでなく、地球規模での多様な選手たちの人間ドラマにも目を向けたいものである。






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最終更新日  2024.08.12 21:12:18
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