カテゴリ:反天皇制
戦犯ヒロヒト(裕仁)が発した戦争開始の詔勅。すべての悲劇は、この開戦の合図で始まったこと死んでも忘れるな!!! 2024-8-28 はんぺん 79年前の1945/3/10は、東京大空襲があった日だ。あらゆる戦争の悲劇(惨禍)の これは、ほんの一部だ。戦争は、全国民を巻き込んだ。ほとんどの国民が、命を生活を奪われて、焼き尽くされた地表をさ迷った・・・ そういう地獄を招いたのが、1941年12月8日のヒロヒト(昭和)の開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)だ。戦争の最大の責任は、ヒロヒトにある。
そのヒロヒトは、マッカーサーの忖度で、命を救われて寿命を全うした・・・死んだ多くの日本人にとっては、絶対に納得できない事実だった。 戦争責任を免れて、生き延びたヒロヒト(裕仁)、その一方で、多くの日本兵は、南方の島国で、餓死の山を築いた。多くの民間人が、戦乱の中、逃げまどい、集団自決に追い込まれた事例も・・・ この対比・・・アンバランスについては、しっかり記憶しておかねばならない!! 特権階級が、生き残り、多くの庶民が犠牲になった、この戦争の記憶を・・・死んでも忘れるなよ・・・・
皆さんは、どう思われるか? はんぺん ―――――――――――――――――――――――――― 東京大空襲から79年(天声人語) 2024年3月10日 朝日新聞 9歳の少女は、目の前の光景が信じられなかった。夜行列車で疎開先から上野駅に着くと、東京は焼け野原になっていた。誰もが黒く、服はズタズタで、「人間じゃない顔」をしていたという。 いまからちょうど79年前、1945年3月10日の朝のことである
▼その日の未明、279機のB29爆撃機が東京の下町を襲い、30万発以上の焼夷(しょうい)弾を投下していた。10万を超える人命が奪われた。米軍はなぜ、そんな非道な殺戮(さつりく)をしたのか。 いかなる理由を並べられても、納得できるものではない
▼彼女の35歳の母も、14歳の姉も、7歳の妹もいなくなった。父は早くに亡くなっていた。一人きりの彼女は親族に預けられたが、悲しく、苦しい毎日だったそうだ。「親と一緒に死んでくれたらよかったのに」。ひそひそ話が胸に突き刺さった
▼大人になってからもずっと、孤児であることは隠して生きたという。毎年3月になると頭痛がして、胸が苦しくなった。結婚し、子どもができた後は「家が火事で焼け落ち、家族が死ぬ」との妄想がやまなかった
▼この国の政府は孤児に冷たかった。戦後長く、空襲の死者の数も名も調べていない。いまに至るも、遺族には何の補償もない。
「国民の命を守るための戦争などと言いますが、私たちは国に棄(す)てられたと思っています」
▼きょうこの日、あえて記しておきたい。戦争は多くの孤児を生んだ。彼女の名前は金田茉莉さん。戦争孤児の会の代表を務め、昨年7月10日に亡くなった。88歳だった。 ―――――――――――――――――――――――――― 自費で鹿児島から上京して戦場体験を語り続ける元日本兵 (ひと)坂上多計二さん 2024年8月13日 朝日新聞 「正義の戦争は絶対にない」 戦場体験者として、自身の体験をこの8年、公の場で語り続けている。
フィリピン・ミンダナオ島の海軍直営農場で日本陸軍兵士として営農指導をしていた1945年5月。米軍の攻撃を受け密林に逃げた。トカゲやサル、ヘビ、何でも食べた。仲間の多くが餓死した。
復員後は公務員に。結婚するも長く子を授からなかった。「鬼のようなことをした報いだ」。密林での行いを思った。
助けを求めて来た日本兵を追い払った。翌日、その男性は倒れ、遺体のそばには妻子の写真が散らばっていた。「極限状態では、人間はひどいことを何とも思わずにやってしまう。それが戦争」
戦後は周囲に負け戦の話をする雰囲気はなく、口を閉ざしてきた。だが、父親を戦争で亡くした甥(おい)から、市民団体「戦場体験放映保存の会」(東京)の存在を教えられ、証言を始めた。
当初は恥ずかしい気持ちもあった。学生から年配まで集まった人たちが真剣に耳を傾けてくれ、話すことが生きがいになった。亡き妻直伝の具だくさんのみそ汁を作り、一人暮らしを続ける。
講演では戦前の国家神道体制についても触れる。今年は自衛隊幹部らの靖国神社への集団参拝が明るみにでた。政治家らも参拝を続けている。「靖国はいまはふつうのお宮のはず。我々はまた間違いの道を歩いていく気がする」
だからこそ、語る。(文・写真 大久保真紀) さかうえたけじ(99歳) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.08.28 02:53:04
コメント(0) | コメントを書く
[反天皇制] カテゴリの最新記事
|
|