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2024.09.03
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カテゴリ:反戦平和

日本全土を焼け野原にした張本人は、あのヒロヒト(裕仁)だ! 忘れるな!ヒロヒト(裕仁)の戦争責任を!!!  2024-9-3  はんぺん

 僕の実父は、あの戦争で召集されて、南方へ送られた。ニューブリテン島のラバウルだった。米軍の飛び石作戦では(要塞化されたラバウルは、占領する手間では割に合わない)と、ラバウルを無視・・・上陸攻撃戦は無く(=玉砕も無く)、スルーされて実父は生き残って・・・今の僕がある。 なんとも不思議な気がする。

 

私たちは(過去の歴史から、学ばなければならない)というのは、単純に(戦争反対)を叫べば良いというのではないハズだ。

戦争は、必ず(相手)があるハズだから・・・こちらが(平和国家)で、交戦意志が無くても、相手から一方的に攻めこまれた過去の事例は、ヤマほどある!!

 そういう事態に備え、常時(戦争の惨禍)を少しでも減らす努力は、欠かせない・・・それが、政治家の重要な仕事の一つのハズだと思うが・・・違うだろうか??

 その政治家が、(非武装)とか(基地反対)とかで、国民を守るという重要な仕事をしていると言えるのだろうか?

きちんとした(備え)無くして、(過去から学んでいる)とは、口が裂けてもいえないハズなのだ。

 

過去から学べない日本のリベラルたちの(過ち)に、いつも呆れている。

戦争に賛成する人間は、居ない・・・誰でも(戦争反対)だろう。しかし、攻め込まれる危機に対応する事の大切さは、人間である限り、不可欠だ!

 この点で、朝日新聞を始めとした、日本リベラルたちは(戦争反対)(戦争はイヤダ)(戦争は繰り返すな)ばかりを主張してきた。

これでは(過去の歴史)から、何も学んでいないことの証明になる。

  こんな大きな(過ち))は、僕は(犯罪だ)と言ってきた。間違った平和観を拡散してしまったという事で・・・何という事だろう、朝日新聞!!!!

僕は、ずっと言い続けてきた・・・目覚めよ朝日、目覚めよリベラル と。

 

皆さんは、どう思われるか?    はんぺん

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出征する青年の笑みと涙忘れず  (声)語りつぐ戦争 

  2024816日  無職 O (滋賀県 83)  朝日新聞

 今でも消えることがない幼い頃の残像がある。出征兵士を囲む夜と、見送る翌朝の様子だ。

 

 私たち家族は旧満州の大連に住んでいた。父は満鉄(南満州鉄道)に勤めていて、おそらく満鉄勤めの青年が1人、下宿していた。23歳くらいだっただろうか。キャッチボールで遊んでくれる、優しい人だった。

 

 1945年の初夏ごろだっただろうか。彼に赤紙(召集令状)が来た。戦局悪化の頃、もはや親元に帰ることもできず、親も来ることができない青年のために、家族でこじんまりとした送別会を開いた。

 

病弱な自分に赤紙がきた悲しさがあるのか、送別会への感謝と感激があるのか、青年の涙は止まらない。

 

 翌朝、名前を記した白いタスキをかけて、官舎の人たちが振る日の丸の旗に見送られて青年は行った。

にぎやかな雰囲気の中で、笑みと涙が共存していた青年の顔は忘れられない。あの朝以来、このK青年の消息は分からない。この時期になると思い出す。

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引き揚げ逃避行、徒歩で渡った川  (声)語りつぐ戦争 

2024816日   無職 A (山梨県 87)  朝日新聞

 1945年、僕は旧満州のハルビンに住む花園国民学校3年生でした。大きな映画館や食堂が立ち並ぶにぎやかな街で、父は呉服店を開いていました。

 

 8月に入ると戦闘機らしいものが空を飛ぶようになり、石畳をガラガラと音を立てて走る戦車を初めて見て、驚きました。

 

 敗戦から1年くらいたち、やっとのことで祖国に帰る準備を始めました。屋根のない貨物列車に乗り込み、数日間、家畜のように揺られました。すると列車が止まり、全員降りるように命じられたのです。鉄橋付近で中国の内戦が激化しているといい、徒歩で川を渡りました。

 

 向こう岸に着くと、村人が「ここを通るなら女を出せ」と脅しをかけてきました。すると、芸者をしていたという女性2人が、「私たちが残ります」と名乗り出てくれた、と父から聞きました。

 

 その後、私たちは葫蘆島から引き揚げ船に乗り、博多港に到着。胸ぐらを引っ張られてDDTを吹きかけられた記憶が、今でも鮮明に残っています。

 

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カルピスと脱出、伊豆での記憶  (声)語りつぐ戦争 

  無職 K(東京都 89)   朝日新聞(声)

 夏の盛りの1944年8月早朝、東京都大森区(現大田区)の池上国民学校の校庭に集合。天皇陛下万歳をして、私は学童疎開へ出発した

 

 この約2カ月前、戦況悪化に伴い、政府は都市部の児童らを対象に「学童疎開促進要綱」を閣議決定。親戚など縁故疎開先のない児童を集団で地方に疎開させはじめた。

 

 私はこの時、3年生だった。荷物は寝具一式と行李。行李の中には教科書、名札を縫い付けた衣服、食器、歯ブラシ。玩具は行軍すごろく、けん玉が持参を許された。

 

 疎開したのは静岡県伊豆の国市の古奈温泉の旅館。伊豆長岡駅で出迎えてくれた人にコップ1杯のカルピスを頂き、飲み干した。感激した。

 

 学童四十数人ごとに分宿し、先生1人と寮母2人が同宿。宮城遥拝(ようはい)や乾布摩擦、体錬の日課が続いた。

 

 数日たつと、誰もが親を、東京を恋しがった。ある日の夕刻、学童3人が東京に帰ろうとして密かに伊豆長岡駅に行き、保護された。先生たちの監視がより厳しくなった。

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ビンタではなく、ゴンタを食らう (声)語りつぐ戦争 

    会社役員 T (千葉県 91)  朝日新聞

 東京都豊島区の池袋第五国民学校6年生の私と3年生の弟は1944年夏、長野県高山村の旅館に疎開し、苛(か)烈な制裁にあった。

先生による体罰で、平手のビンタと違い、拳骨(げんこつ)で頬を強く殴られるのでゴンタと名付けた。これは恐怖であった。

 

 布団を畳むのがいちばん遅い班の全員が殴られ、何の理由もなく、気合を入れるからと私も殴られた。3日ほどかむ時に痛みが残った。

 

 ある時、5年生の男子が親からの小包を先生に無断で持ち出した。盗みと見なされ、ゴンタを食らった。顔が腫れ、口の中が切れて食事ができず、別の部屋に寝かされた。

 

 たまたま面会に来た私の母が介抱した。訳を知り、母は私たちを連れて帰ると言い出したが、当時の風潮では、帰ると言うこと自体が「戦線離脱」「敵前逃亡」に当たると考え、私は拒否した。こういった制裁はこの先生に限ったことかもしれないが、忘れられない出来事である。






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最終更新日  2024.09.03 17:18:34
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