カテゴリ:学生運動
極左トロツキストのなれの果てが・・・赤軍派、日本赤軍、連合赤軍だ。革命的空文句で、多くの生命が奪われた・・・ 2024-9-6 はんぺん 誰も、まじめに(総括)しなかった無責任集団だ。 多くの無関係の住民が、殺された。 日航機ハイジャック事件は、赤軍派メンバーによる(事件)だが、他の極左派(暴力集団)たちの無法も忘れてはならない!
(洗脳)で、革命的空文句に、踊らされた彼らは、周りの仲間を(再洗脳)してしまった・・・(青2才)が、(青2才)をオルグ(洗脳)した時代だった。
赤軍派は、首相官邸の襲撃や霞が関占拠まで、決定していた。その最高責任者は、高原浩之(遠山美枝子の夫)だった。
当時のトップは、塩見孝也だったが、彼は、当時は逮捕されて獄中にいたので、代わりに高原浩之が、トップについていた。 荒唐無稽な(軍事方針)を決定した責任者は、高原浩之だった。忘れてはならない!!!
極左派暴力集団と、狂信的宗教集団は(洗脳)という手段で、大衆を引きずり込んだ・・・という意味では、同類だ。多くの民衆の(人権)は、損なわれた。多くの民衆の(自由と民主主義)が、損なわれた・・・
狂信的宗教集団は、多くの民衆を(洗脳)して、金品を巻き上げて、生活を破壊した。信徒は、奴隷の如く、無抵抗集団に貶められた。 極左派暴力集団は、多くの学生・労働者を(洗脳)して、テロを多用して、多くの人命を奪った。彼らの貴重な人生を破壊した・・・
皆さんは、どう思われるか? はんぺん
―――――――――――――――――――――――――― 元日本赤軍メンバー、城崎勉受刑者が死亡 「ジャカルタ事件」で殺人未遂罪 2024-7-21 産経新聞 元日本赤軍メンバーで、1986年にインドネシアの日本大使館に爆発物が撃ち込まれた「ジャカルタ事件」を巡り殺人未遂などの罪で服役中だった城崎勉受刑者(76)が、20日に死亡したことが21日、捜査関係者への取材で分かった。捜査関係者によると、服役中の施設で夕食をのどに詰まらせて亡くなった。 城崎受刑者は富山県出身。別事件で服役中の77年にダッカ日航機ハイジャック事件で「超法規的措置」により釈放された。 米当局は96年、ジャカルタの米大使館に迫撃弾を発射したとしてネパールで身柄を拘束。禁錮30年の判決が言い渡された。模範囚として2015年に釈放され、日本への強制送還後に警視庁が逮捕した。 ジャカルタ事件では、東京高裁が18年9月、懲役12年とした一審東京地裁判決を支持、被告の控訴を棄却した。 ―――――――――――――――――――――― 「日本赤軍に入るつもりなかった」と語った城崎勉被告の真意とは? 「革命用語」飛び交い法廷はまるで歴史教室に… 2016-11-3 小野田 雄一 産経新聞 「連合赤軍(の内ゲバ)により、仲間がみんな殺されてしまった」 「重信房子(受刑者、元日本赤軍リーダー)とは当然、面識はあった」。 1986(昭和61)年にインドネシアの日米両大使館に迫撃弾が撃ち込まれた「ジャカルタ事件」の実行犯だったとして、殺人未遂罪などに問われた日本赤軍メンバー、城崎勉(しろさき・つとむ)被告(68)。 24、25の両日に行われた被告人質問では「羽田闘争」「大菩薩峠事件」「連合赤軍」といった歴史的用語や、「世界根拠地論」「前段階武装蜂起論」といった左派の思想用語が何度も登場。革命運動の生き字引ともいえる城崎被告と検察側の間では革命運動史も議論され、法廷が歴史教室のようになる一幕もあった。
「労働者とともに闘おう」と大学中退 城崎被告が法廷で語ったところによると、昭和22年に富山県で生まれ、貧しい幼少生活を送った。徳島大学工学部に進学したころ、ベトナム戦争に介入した米国が北ベトナムへの爆撃作戦(北爆)を開始した。 「日本が宣戦布告せず行った真珠湾攻撃は間違っていたと学校で教わったが、米国が同じことをした。反米デモに参加しているうちに左派団体からオルグ(勧誘)を受けた。首相佐藤(佐藤栄作元首相)の米国支援目的のベトナム訪問を阻止するために『羽田闘争』に参加した」 政治運動に没頭する一方、大学へは足が遠のいた。「単位が取れない状況になった。親のすねをかじり続けるよりは、早く独立して、労働者とともに闘おう」と考え、大学を中退。その後、「共産主義者同盟赤軍派」(赤軍派)からオルグされ、参加した。 城崎被告によると、「将来的な武力による権力打倒」を志向していた他の左派セクトに対し、赤軍派は「今すぐに権力打倒が必要だ」と考えていた。 そのため革命兵士の育成と資金獲得を兼ね、金融機関や通行人を襲う「M作戦」を計画、城崎被告も実行役を担った。Mは一般に「マフィア」の頭文字を取ったものとされるが、城崎被告は「マネーのMだと思っていた」という。結局、M作戦に参加した疑いなどで71年に逮捕され、ほどなく懲役10年の実刑判決を受けた。
M作戦に「矛盾を感じていた」 赤軍派は、労働者に先立って先鋭化した運動家だけで武力革命を行うべきだとする理論「前段階武装蜂起論」を掲げていた。 しかし、M作戦の失敗や、山小屋で軍事訓練中の赤軍派メンバーらが大量検挙された「大菩薩峠事件」(69年)、赤軍派出身者らで結成した連合赤軍が内ゲバで多数のメンバーを殺害した「山岳ベース事件」(71~72年)などで、同理論は破綻した。 「M作戦で逮捕された後、山岳ベース事件が起き、知っていたメンバーが殺されてしまった。そのため、出所後にどのように生きるかは考えていなかった」という。またM作戦自体にも「人民のために闘うと言いながら、人民から略奪する行為で、当時から矛盾を感じていた」と語った。
ハイジャックに「人民を盾、支持できない」 受刑中の77年、転機が訪れる。連合赤軍と同様に赤軍派出身者らで結成した「日本赤軍」が、赤軍派の理論「世界根拠地論」(日本国外に拠点を作り、そこから世界各国の革命を推し進めるという理論)に基づいて、日航機をハイジャックして人質を取り、日本で服役・勾留中のメンバーらの釈放を求めた「ダッカ事件」が発生する。釈放要求リストの中に、城崎被告の名前も入っていた。 「逮捕前から、世界根拠地論は不可能だ、空論だと思っていた。だから日本赤軍に入るつもりもなかった。しかし刑務所にいるよりは自分を必要としてくれるところで、米国の帝国主義と闘うべきだ」と考え、釈放に応じることにしたという。また、ダッカ事件についても「解放してくれた人たちを批判することになるが、人民を盾に取ることは支持できない」などとも述べた。 城崎被告によると、ダッカ事件で釈放を実現させた日本赤軍からオルグを受け続けたが、拒否。その後、中東でイスラエルと支援する米国側と闘う「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」に参加。参加の動機については「米国・イスラエルの帝国主義の侵略に対する対抗だ」と述べた。
ホテルの指紋「CIAならやりそうなことだ」 今回、罪に問われたジャカルタ事件について、日米当局は「事件直前に東京サミット(先進国首脳会議)があり、国際テロ撲滅をうたった声明が公表された。それに対抗するための日本赤軍によるテロ行為」とみている。 しかし、城崎被告は初公判以来、一貫して無罪を主張。「重信(受刑者)とは面識があったし、日本赤軍とPFLPは共闘関係にはあったが、私は日本赤軍に参加したことはない。他人が日本赤軍のメンバーだと言っているだけだ」と、日本赤軍の作戦に基づいてジャカルタ事件を実行したとする検察側に反論。「事件当日は中東のレバノンにおり、事件には関与していない」などと無罪を主張している。 また犯行前後に使用された偽造パスポートに城崎被告に似た男の顔写真が使われていたことについては「写真はいくらでも偽造可能だ」と反論。迫撃弾が発射されたホテルの一室から城崎被告の指紋が見つかったことについても「米国は日本赤軍の犯行に見せかけようとしたと推測している。米中央情報局(CIA)あたりならやりそうなことだ」と述べた。 その一方、PFLPでは砲兵部隊に所属し、迫撃弾の運用方法などを学んでいたことや、PFLP所属中も日本赤軍のメンバーらと定期的に連絡を取り合っていたこと、レバノンの内戦が終結し、93年ごろに同国を離れて南アジアや東南アジアで潜伏していた時期、日本赤軍から一定の金銭的支援などを受けていたことは認めた。
レバノン出国後、城崎被告は潜伏先のネパールで96年に身柄拘束され、ジャカルタ事件について「別人がやった」などとして無罪を主張したものの、米国で禁錮30年の判決を受けた。模範囚として刑期が短縮され、2015年に釈放。日本に移送後、起訴された。 状況証拠積み重ねる検察に「故郷で暮らしたい」 事件の最大の争点は、ジャカルタ事件の実行犯は城崎被告なのかどうか-だ。 城崎被告側は、「事件当日、ジャカルタにいなかった」と無罪を主張。これに対し、検察側は、当時の状況や城崎被告の不自然な行動から、「城崎被告以外に犯人はありえない」として有罪を立証しようとした。 被告人質問で検察側は「この裁判では、事件当日のアリバイがあると言っているが、同様のアリバイを米国での裁判では主張していないのはなぜか」「米国の獄中から支援者に送った手紙に、本当に冤罪(えんざい)なら怒りを書くはずなのに、そうした表現がないのはなぜか」などと質問。これに対し、城崎被告は「そうする必要がなかったためだろう」などと答えるにとどめた。 さらに検察側は、城崎被告がレバノンなどで日本赤軍と定期的に連絡を取り、支援を受けていた▽砲兵として迫撃弾を扱う技能を持っていた▽犯行前後に現場付近で城崎被告とみられる男の目撃証言がある▽ジャカルタで使われた偽造パスポートに城崎被告によく似た男の写真が使われていた-ことを被告人質問や証人尋問で明らかにするなど状況証拠を積み重ねることで、有罪を立証する方針とみられる。
城崎被告は被告人質問の最後、「米国の帝国主義、米国に追随する日本は倒さなければならない」と述べる一方で、「もう自分は高齢だから、自分がやるべきことではない。自由の身になったときは、故郷に帰って暮らしたい」と語った。 公判は今後、論告求刑、判決へと続いていく。(小野田雄一) ―――――――――――――――――――― 日本赤軍とは・・・・ 警察の摘発などにより国内で勢力が低下していた共産主義者同盟の最左派「赤軍派」の幹部だった重信房子受刑者らが、革命拠点を海外につくる「国際根拠地論」に基づき、1971(昭和46)年にレバノンへ出国し結成した組織。 イスラエルの空港で自動小銃を乱射して約100人を死傷させたテルアビブ空港乱射事件や、拘束中のメンバーの釈放を狙ったクアラルンプール事件(75年)とダッカ事(77年)を起こした。 国内に残った赤軍派メンバーらは「連合赤軍」を結成したが、内ゲバによる殺人事件やあさま山荘事件などを引き起こし、瓦解(がかい)した。 ―――――――――――――――――― ダッカ事件とクラルアンプール事件 1977年9月、日本赤軍が日航機をハイジャックし、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸させた上、乗客らを人質に取り、服役・勾留中の同志らの釈放や、身代金600万ドルを日本政府に要求した事件。 福田赳夫首相(当時)は「超法規的措置」として要求を飲むことを決定。釈放要求のあった9人のうち、拒否した3人を除く城崎勉被告ら6人が釈放された。
日本赤軍が在マレーシア米大使館などを占拠し、職員を人質に同様の要求をした75年のクラルアンプール事件でも5人が釈放されており、両事件での超法規的措置による釈放は計11人に上った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024.09.06 00:00:38
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