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2024.09.23
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カテゴリ:反戦平和

戦犯ヒロヒト(裕仁)を、なぜ糾弾しない? 死んでも「戦争責任」は、無くなることは無い! まだ、戦争の後片付けは終わってはいない!!   2024-9-23   はんぺん
 
「遺族の戦後は なお続く」(本文)・・・その通り・・・ヒロヒト(裕仁)が始めた戦争で、殺された多くの国民、海外の民衆の(怨念)は、消えることは無い・・・

 

「商船や漁船など多くの民間船舶が国に徴用され、米潜水艦の魚雷などで沈んだ。戦後の国の調査によると、日本の民間船舶は7240隻が戦没した。」(本文)

「42年3月から45年5月までの間に戦没した船は少なくとも65隻、戦死者は兵士や船員、船客、疎開者ら1万683人に上る。」(本文)

 

オドロオドロシイ記録だ。

敗北が、明らかであるにもかかわらず(偽の武士道?)で、ふんぞり返った卑怯な戦争指導者たちは、敗戦を引き延ばした・・・その結果、多くの無駄死にが、積みあがったのだ。

 

 その卑劣な戦争責任者のトップが、ヒロヒト(昭和)だった・・・なんという恐ろしい事を この男は、仕出かしたのだろうか!!! 

  戦後、日本の新聞やテレビは、ヒロヒト(裕仁)の戦争犯罪の真実を スルーしてきた。真実を報道するべきマスコミが、その責任を放棄して、大々的に、またまた国民を(洗脳)し続けている!!

  リベラルと言われる政党や組織でも、スルーの流れが強まっているように、僕には思える。言い続けなければ・・・いつか、言いにくい時代が、やってくるという事を(過去から学ぶ)べきだろう・・・

 

皆さんは、どう思われるか?   はんぺん

 

―――――――――――――――――――――

 沖縄派遣部隊など3700人超が乗船した富山丸、疎開学童ら1484人が乗った対馬丸鹿児島周辺海域で戦没した民間船は65隻超。終戦から79年たって、遺族の「戦後」はなお続く   2024/08/08 07    南日本新聞

  太平洋戦争中、人や物資を輸送するため商船や漁船など多くの民間船舶が国に徴用され、米潜水艦の魚雷などで沈んだ

特に80年前の1944(昭和19)年以降、戦況の悪化に伴い被害が大きくなった。「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)によると、鹿児島県周辺海域では60隻超が沈み、1万人以上が亡くなった。

 

 戦後の国の調査によると、日本の民間船舶は7240隻が戦没した。同資料館は約2500隻の戦没位置や死者数などをホームページで公開している。

 

 鹿児島県周辺海域の記録を集計すると、42年3月から45年5月までの間に戦没した船は少なくとも65隻、戦死者は兵士や船員、船客、疎開者ら1万683人に上る。

 42年の戦時海運管理令などによって国が商船や漁船を一元管理し、輸送や監視業務にあたらせた軍関係者や船員以外の乗客の情報は乏しく、被害の全容は分かっていない。4000隻以上が犠牲になったとされる漁船・機帆船の多くも記録が残っていない。

 

 県内周辺で最も死者が多かったのは44年6月29日に徳之島沖で戦没し、沖縄派遣部隊約3600人を含む3700人超が亡くなったとされる富山丸だった。

民間人の犠牲が最も多かったのは44年8月22日、十島村悪石島沖で戦没した対馬丸。学童784人を含む疎開者ら1484人が亡くなったとされる。

 戦没した65隻のうち44、45年に27隻ずつ計54隻が撃沈された。44年まではほとんどの船が米潜水艦の魚雷で沈み、45年は空爆で犠牲となった船が半数を超えた。

 

 富山丸対馬丸、十島村中之島沖で沈没した武洲丸の遺族らは今も慰霊式を続ける。

「戦時遭難船舶遺族会」(沖縄県)は、奄美大島近海で沈没した嘉義(かぎ)丸、屋久島町口永良部島沖で沈没した湖南丸など25隻の犠牲者を対象に活動している。

―――――――――――――――――――――――

1坪に11人が詰め込まれた戦時下、旧日本軍の輸送計画は無謀を極めた。「甚だしい人命軽視だ」。護衛も脆弱。用意周到に待ち構える米軍の前に、あまりにも無策だった

2024-8-8    南日本新聞

 太平洋戦争中、人や物資を輸送するため商船や漁船など多くの民間船舶が国に徴用され、米潜水艦の魚雷などで沈んだ。特に80年前の1944(昭和19)年以降、戦況の悪化に伴い被害が大きくなった。「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)によると、鹿児島県周辺海域では60隻超が沈み、1万人以上が亡くなった。

 

 戦没船の記録を見ると、旧日本軍の無謀な輸送計画が浮かび上がる。「戦没した船と海員の資料館」で調査を続ける大井田孝さん(82)=神戸市=は「甚だしい人命軽視だ」と憤りを隠さない。

 3700人超が亡くなったとされる富山丸(7089トン)には約4600人が乗船していた。「1坪に11人が詰め込まれた」という生存者の証言も残る。大幅な定員超過で、被害拡大の一因となった。

 

 約3カ月後の1944(昭和19)年9月25日、鹿児島県十島村中之島沖で戦没した武洲丸は、疎開するために乗船した徳之島島民148人が犠牲になったとされる。護衛は木造の駆潜特務艇2隻で潜水艦に対抗できる態勢ではなかった。

 41年の真珠湾攻撃の後、米国は日本の船舶に対して無制限で攻撃するよう航空部隊や潜水艦に命じた。

 

 富山丸を沈めた潜水艦スタージョンの哨戒報告書によると、同艦は攻撃までの数日間、沖縄と鹿児島県徳之島の間を周回していたことが分かる。船団を確認した1時間後、富山丸へ4発の魚雷を発射した。4日後には奄美大島沖で大倫丸(船員ら19人死亡)も撃沈された。

 大井田さんは「南西諸島周辺は米軍が用意周到に待ち構えている状況だった。にもかかわらず、旧日本軍は乗員の命を助ける戦略を立てなかった」と嘆いた。






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最終更新日  2024.09.25 04:42:04
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