「地上の楽園」は「地獄の生活」だった。 北朝鮮帰還事業から60年、」 2019年12月14日 朝日新聞
全体主義国家における非人間性を示して余りある、この現実だ。・・・それが、北朝鮮だろう。この体制を許している世界、その世界に住み続ける我々は、何をするべきなのか? いつも自分自身に問い続ける自分がいる。自分もまた、昔、この社会主義を信奉して、(運動?)してきたのだから・・・その罪も忘れられないのだ・・・ (はんぺん)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「地上の楽園」は「地獄の生活」だった。北朝鮮帰還事業から60年、」 2019年12月14日 朝日新聞 9万人を超える在日朝鮮人らが北朝鮮に渡った帰還事業の開始から14日で60年がたつ。「地上の楽園」という渡航前の宣伝とはかけ離れた生活環境や待遇に、多くの人が苦しんだ。「二度と同じことを繰り返してはならない」。脱北した元帰還者は訴える。 「地獄のような生活だった。非常に貧しく、満足に食べることもできなかった」。脱北した川崎栄子さん(77)は、当時の生活を振り返る。「周囲に本心を打ち明けられず、常に孤独を感じていた」 1942年、京都府で在日朝鮮人の両親のもとに生まれた。高校3年生だった60年に「社会主義について知りたい」と帰還事業に参加。1人で新潟港から北朝鮮に渡った。 帰還船が北朝鮮東部の清津(チョンジン)港に着くと、誰かの叫び声が聞こえた。「下りるな。その船で日本に帰れ!」。先に渡った帰還者たちだった。 当時、在日朝鮮人は日本社会で国民健康保険や国民年金にも加入できず、差別や貧困に苦しんでいた。朝鮮総連などは北朝鮮を「地上の楽園」と宣伝。日朝両政府や両国の赤十字などは帰還事業を推進し、マスコミも後押しした。 ただ、現実は全く違った。複数の脱北者によると、帰還者らは北朝鮮で低い身分に置かれ、政府への忠誠心を疑われると強制収容所に送られた。 川崎さんは北朝鮮東部の大学を卒業後、機械工場に配属。現地の男性と結婚し、子ども5人を授かった。ただ、月2回の食糧配給は9割が雑穀で、白米が1割だった。肉や魚は手に入らず、「粗末な食事しか与えられなかった」。 数少ない楽しみのひとつは、信頼できる友人たちと自宅に集まり、日本の歌を歌うことだった。当局に知られると処罰を受けるため、窓やカーテンを閉め切った。十八番は美空ひばりさんの「越後獅子の唄」。「日本を思い出し、みんな涙を流しながら歌った」 北朝鮮では90年代に入り、集団餓死も起きた。「もうこの国についていけない」と脱北を決意。2003年に中朝国境の川を渡った。翌年、日本にいる弟が身元引受人となり44年ぶりに日本の土を踏んだ。娘と孫2人も脱北した。 12年、「帰還事業の実態を世に訴えたい」との思いから名前と顔を公表した。18年には「凄惨(せいさん)な生活を強いられた」として、北朝鮮政府へ5億円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。 北朝鮮への帰還第一船が出港した新潟で14日、帰還後に亡くなった人の追悼式を開く。「北朝鮮に残る帰還者やその家族は、いまだに日本との往来の自由がない。一人でも多くの人が生きているうちにこの問題に関心を持ってもらいたい」(黒田壮吉) ◆キーワード <北朝鮮帰還事業> 北朝鮮から「帰国事業」、韓国から「北送」と呼ばれた。日朝赤十字の合意にもとづき、84年までに計9万3340人が北朝鮮に渡った。うち約6800人が日本人配偶者ら日本籍。 北朝鮮には、李承晩大統領の独裁政権下で日本との国交交渉を進める韓国に対抗し、社会主義体制の優位を宣伝したい意図があった。 一方、日本側には人道面での共感に加え、治安や財政上の負担軽減のため「希望者は帰還させたい」との考えもあったことがその後の研究で明らかになっている。脱北者のうち、日本には関東に約150人、関西に約50人が暮らす。韓国にも300人以上がいるとみられる。