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カテゴリ:意識
さきほど教育テレビの「体であそぼ」で見た映像に
びびっときました。 それは、だいきくんがお寺の住職さん?(お坊さん)に 寺での仕事を教わっているシーンでした。 廊下の雑巾がけひとつとっても、 お坊さんのやり方は雑巾の大きさを自分の手の大きさに折りたたみ、 そのすっぽり手が収まる大きさの隅々に 自分の手の重心をしっかりとかけ、 膝はつかず、おしりをしっかりあげて一気に廊下の端から端まで拭きあげる。 そのよく拭き込まれて底光りした廊下は そこにある空気まで凛としたものにしているようでした。 そのあと、庭掃除のシーンで 落ち葉を長い竹箒で混ぜているような、 おぼつかない手つきのだいきくんに対し、 お坊さんは「幅をとって、柄をしっかりもち、 体ごと自分がほうきになって掃くんだ。」 と、言い放ちました。 自分が箒になって、落ち葉を掃く・・・ 瞬間、箒と自分が同化してしまい、この感覚だ、と思いました。 なにがこの感覚なんだか・・・。 けれどもその時、昔受けていた講座で読んだある文章を思い出しました。 受講生がお題をもらい、書いたものでしたが 彼女が寝る前に行うヨガの「○○のポーズ」(名前は忘れた)を するとき、彼女は一本の鍬になり、 真っ黒な柔らかい大地を朝陽に向かって、ゆっくりとそしてしっかりと 振りかざし、柔らかな土に潜り・・・というようなことが書いてありました。 実際はもっとその世界に思わずいざなわれてしまうような なんとも拡がりをもった文章でしたが。 私がその文章を読んで感じたのは鍬になった自分が感じる心地よさでした。 ・・・と心が飛んでしまいましたが、 毎日の中で、自分が輝くときというのはほんの瞬間的なもの。 これだけ時間と一緒にいるのに。 いろいろなことを平行してやっていると、特に家事などは 次にやることを考えながらこなしていることが多く、 今やっていることから、ふと意識は違うものへと飛んでしまうことがあります。 一つ一つ、自分のやっていることに浸ることができたら 同じことをこなしていても、もっと質感のある時間になるのだろう、と思ったのです。 だって、ほんの瞬間輝くときというのは そういうときに訪れるから。 そのとき、そのときに浸ることは難しいかもしれないけど そんな感覚は自分のそばにいつも置いておきたいな、と思いました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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