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カテゴリ:今日のできごと
みなさまこんにちは
気付いたら、今日で3月はおしまい。明日から新年度と書くつもりでしたが、その日のうちに日記が完成せず、4月になってしまいました 付近の幼稚園や小学校などは、なんとか3月中に卒園式や卒業式ができたようです。もともと予定していた会場の被害状況により、やっと31日に幼稚園で卒園式という方もおられました。 さて、忘れる前に地震の時のことを記録しておこうとおもいます。 その日は、ちょうど、幼稚園の未就園児クラスがあり、その後スーパーで買い物をすませ、なんとなく、ゲオなど、今日は余計な寄り道をしないで帰ろうという気分で帰宅したのが、2時半前でした。 そして、忘れないうちにと、長女の保育園の一時預かりの来月の予約確認の電話をすませ、ほっと一息したいので、その前にと、2階のベランダで洗濯ものを取り込み始めてまもなく、 なんだか揺れてる??という感覚が!! 最初のうちは震度2か3かなという感じでしたが、1歳と3歳のちび2人が1階にいるので、とりこみかけの洗濯ものを手に持ったまま、窓も開けたまま、階下に走りましたが、 その間にゆれがひどくなり、なにか割れる音なんかもして、普段だったらとっても移動なんてしないなという揺れの中、とにかくちびたちの元へ急ぎました。 後で気づいたのですが、洗濯物はちびたちのいる居間の入り口に放り出してました 洗濯物も半分以上そのまま、窓も開けっ放しでしたが、あとで帰宅した長男にやってもらいました^^ 1歳の長女は最近おぼえたダイニングテーブルの椅子に内側からよじ登り、いすのせもたれとテーブルの間に挟まった状態で、そこを抑えつつ、すぐ近くの五月人形のガラスケースを抑えていました。 すぐ次男がそばにきて、ずっと3人でくっついていましたが、必死でガラスケースをおさえてました^^; 食器棚の方でガラスが割れる音がして、蛍光灯の傘が外れて揺れてる音もしている中、次男がつけていたテレビの画面では、 東北地方に強い地震を表す黄色く色づけされた地図がうつっていましたが、間もなく消えました。次男は自分で消したと言ってましたが、停電の瞬間だったようです。 少し落ち着いたと思って、庭にでてみると、余震が何度か続き、すっかりおびえた次男は家に入りたがらず、そのうち大粒の雪も降ってきて、停電になって暗く、寒い部屋に入れるのがますます難しくなり、近所の方も留守だったようで、誰も見かけず、不安でいっぱいのところ、 やっと幼稚園のお迎えから帰ってきたご近所の方がいて、ほっとしました。地震がいったんおちつくまで園でしばらく待機していたそうでした。 電気がだめなら水は?と思いましたが、流しも洗面台も、近くの倒れた棚から、いろいろなものが散乱していて、かたづけないと水もだせず、なんとか片付けて蛇口をひねったところ水はでたのでひとまずほっとしました。 トイレも2,3回くらい流れたのですが、夕方くらいにはとまってしまいました。 とにかく気持ちを落ち着かせようとすこしずつ玄関から片付けて、すこしずつ足の踏み場を確保しながら、家にはいりたがらない次男を確認しつつという状態でいたところ、 遅くなるはずの夫が歩いて帰宅して、ほっとしました その時に、夫から、史上最大級なんだ!と聞いて、びっくりしました!! 確かにあんまりいつまでも揺れるので、 思わず、次男と一緒に、「もうおわりにして~!」と叫んでいましたが、 大地震というと、関東大震災や、阪神大震災などを思い浮かべ、家家が倒壊して焼け野原状態というイメージが強く、 家はなんとか無事だし、以前経験した宮城県沖地震でも、比較的軽量のものが倒れる(といっても結構重いのですが)自体は経験していたので、それくらいかなとおもっていたのでした。 でも、関東大震災は、お昼の準備時で、現代とちがってすぐに火を消すのが難しく火事になった、阪神大震災は東日本と比べて、地震が少なく、耐震対策があまりしてないため、倒壊した建物が多かったのに対し、 私が育った東京では、80年初めから、東海沖地震の危険もあり、いつ関東大震災並みの地震がくるかわからないといわれ、訓練もかなり真剣だったし、東北地方でも、地震が多いので、家にしても、家具にしても耐震対策の説明や注意を受けていたという違いもありました。 宮城県沖地震は停電も断水もなかったものの、いろいろなものが倒れたり落ちたりという経験があったので、比較的冷静でいられました。 といっても、夫が長男を迎えにいって、家族そろって無事を確認したあとは、おなかもすかないし、のども渇かず、まだ余震があるというので、持ち出し袋を用意して、居間で携帯ラジオをつけて毛布だけもってきてすぐに寝ました。 が、一晩中断続的に余震があり、携帯ラジオから、緊急地震速報がなるたびに身構え、とっても眠るどころではありませんでした 翌日からは、給水に行くのが主な仕事となり、昔は井戸に毎日くみにいってたんだなあと思いながら運ぶ日が続きました。それらについては、今までの日記に記してあると思います。 直後は街燈も消えて、本当に真っ暗で、たまに車のライトがある程度、昼間も信号はなくて、みなさんよく気をつけて運転してるなあと思いました。が、目の前のT字路で衝突する現場も目撃しました 横断歩道を渡るのも怖くて、なるべくまとまって歩いてました。 すこしずつ復旧してきて、道路を挟んだ向こう側のマンションの非常灯がついているのがみえたとき、もう少しだ!と希望をもったのをおぼえてます。 しばらく暗くなる5時6時くらいには夕飯をなんとかすませて布団に入っていましたが、あるとき、気付くと、テレビがついて、居間の明かりもついてました 電気が通った瞬間でした おもわずやった~!と叫んでました 電気がつくか試していたせいか、階段などの電気もついてて、余計な電気を消し、これで、携帯の充電もできると安心し、そのうちつながりにくかった携帯もすこしつながりやすくなりました その後、水が出るまでにはもう少しかかり、はやく洗濯したい、お風呂に入りたい、給水つかれるとおもっていたのですが、忘れもしない17日の夜、 なんとか夕飯もすませて、食器もアルコールスプレーや地震前のお米のとぎ汁(これが肌にいいのです^^)で濡らして、キッチンペーパーや、古布でふきとり、一段落とおもってし ばらくすると、流しの水道が、不安定ながら突然出始め、 あまりびっくりして、 「あれあれあれ!!」なんて叫んでましたが、 翌日が誕生日で、久々に洗濯とお風呂にはいれて、本当にうれしい誕生日となりました 最初は、水どころか食料などもいつ手にはいるかわからないという不安でいっぱいでしたが、 少しずつ営業するお店もでてきて、並ぶこともなくなりました。 それでも、街中は大分普通になってきたようですが、近所のお店は、お菓子のコーナーをはじめ、空っぽの棚も目立ちます。 野菜は価格もおちついてきましたが、肉などは以前の1,5倍ほどです。 うちは並んでまで入れなくてもという方針でガソリンはしばらく入れてませんが、 ひどいときは、ガソリンスタンドに並んだ無人の車の列ができていたときもありましたし、人は乗っているものの、1車線ふさいでいるので、救急車がきても、よけようがない状態もありました。 それも、満タンにできた人も増えてきて、少しずつ落ち着いてきたようです。うちは来週くらいに入れるかなといってます。 幸いうちは被害は少ない方でしたが、同じ時期に同じ会社が建てた家でも地盤の関係で被害の大きなお宅もあったり、 すぐ近くでも、やはり地盤の関係で、倒れかけた電信柱に、たわんでいる電線、ブロック塀がくずれたり、外壁がはがれて次の層がみえてたり、ゆがんでいるお宅もあり、 うちも怖かったけれど、このお宅の方はもっともっと怖かっただろうなと思いました。 今は別の場所に避難されているそうです。 道路も地割れしてますが、割れてるだけでなく、段差になっているところもあります。ガラスばかりだった車のショールームはほとんどガラスが割れてましたし、 いろいろ見てみると、福島や海沿いの方々も大変だけど、住宅街もその場によっていろいろな被害があり、やはり今までに経験したことのない規模だったんだなあと改めて思います。 そんな中、被災地以外の友達からの心配メールや、メッセージにもとっても励まされましたが、(本当にみなさまありがとうございます) 阪神大震災や中越地震の被災者の方々の応援メッセージはまた説得力というか心がこもっているのを感じますし、 それらの土地の方々が今りっぱに復興している姿は勇気をもらいます。 テレビCМや番組で、タレントさんが言ったり、流れるメッセージも いうだけでなにになる?とか、 阪神大震災被災者といっても、規模が違うなどという人もいますが、 こんなに力をもらえるとは被災してみないとわからないとおもいます。 またいろいろ自粛自粛ともいう話もありますが、 バカ騒ぎは論外ですが、少しずつできるところから心の明かりを広げることも大切だとおもいます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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