♪ 実体を伴いながら顕ちあがる文字には文字の言い分がある
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とても重要なことが書かれていたので、一緒に考えてもらえたら幸いです。何をするにもスマホ。書店で読みたい部分をパシャ。時刻表やメニュー、セットリストも注意書きもパシャ。板書のノートを取らずスマホで撮って終わり、という話は以前から聞いていた。簡便なこと手間をかけないことが、良いことだと思い込んでいる現代人。盲信と言ってもいい。
そこから零れ落ちるものには目をつむり、情報に惑わされていることにも気がつかない。
新聞記事は限られた文字数で表現するため、簡潔に重要なことだけを纏めてある。
良い記事、ファイルするべき記事は切り抜いておく事ができる。これをスマホで撮っておく
なんてことは邪道でしかない。(拡大します)
簡潔な記事から、なおの抜粋をしてみます。 デジタル技術の発展や普及で、人間自身の情報処理能力も自然に向上するかのような錯覚に陥るのは禁物だ。様々な電子機器を使うようになった大学の授業では、スクリーンに映写された情報をノートに取ろうとしない学生が増え、板書を写さずにスマホで写真を撮るだけの学生も多い。情報獲得のための労力が軽減されるにつれ、情報を人間自身が内面化する作業まで省力化されてはいないか。
書き写すという行為は一見、やぼな作業に見えて、外界からの情報と向き合う一定の時間をもたらす。そこに自分なりの注釈を書き加えてノートを取ることは、情報を整理し、自分の頭でまとめるに等しい。
デジタル時代の落とし穴は、見て聞くだけで手を動かさなくなってしまうことだ。デジタル技術の恩恵で情報が豊かになる一方、情報を内面化する作業がおろそかにされるなら、本末転倒だ。デジタル技術へのリテラシーもさることながら、ノートを取る手間の持つ意味が理解できる人材を育てるべきだろう。(海星)
ここでは、提言のための状況説明に終始していて詳細は省かれています。“気になる人は自分で調べろ” ということでしょう。書くという行為がいかに重要かは経験で知っている、はずだけれど、ついつい世の風潮に流されて無視する癖が付いている。
“書くこと” で脳がその重要性を察し、記憶野に情報を送ってくれる。書くと覚えられるがスマホがその脳の代わりをしてしまい、脳は活用してもらえない。使われない脳は怠け癖が付くばかりで、ニッカド電池のようにその内容量がどんどん小さく低下していく。
毎日こうして文章を書いていて、たまにコピペで済ませてしまうことがある。しかし、その時に書いた文章はほとんど覚えていない。書いた実感も無ければその内容がまったくインプットされていない。
若いころ(20代)は確かに記憶するのは容易だった。一度読んだり見たりしたことを結構覚えていたものだが、年齢が上がるにつけその能力はどんどん下がっていく。下がる一方なのに、忙しいのを理由にそれを放置して、ますます劣化させてしまっている。
それに抵抗するつもりで、こうして毎日PCに文字を打ち込んでいる。手で書く訳じゃないが、ペンの代わりにキーボードを使っているだけで、その本質は変わらない。でも漢字が書けなくなっているのは確か。自分の手で書かないのでどうしても字の構造を忘れてしまって、書けなくなっている。
それで字を手で書く意味もあって、新しく知り合った人に手紙を書いたりしている。でも、貰った方は気味が悪いのか、返事が来ないのでどうしたもんかと悩んでしまう。誰も手紙など書かない時代、ビックリはしても自分が書くという発想に至らないのか。あるいは、手紙など書いたことがないので何をどう書いたらいいのか分からないとか。
はて、さてと困り果てているいちに忘れてしまったのだろうと勝手に推察している。メールなら短いコメントで済ませられるのに・・・
先日出した手紙。
慣れない人は、いきなりこんな体裁の手紙が届いたらびっくりするでしょうね。
衰え失った脳細胞はもう戻らない。記憶をスマホに預けて、脳が必要とされていない。AIやITを研究・開発するのは決して悪いことではないけれど、商業主義に絡めとられて人間が劣化して行くなんて、まるで三流映画を見ているようだ。
観客は “そんなバカな” と笑って白けているが、場面は反転して映画の方から観客が笑われている・・・
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