♪ 真っ白な入道雲が変幻しどうだどうだと見下ろしている
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“天才”アラーキーのエッセー集「荒木経惟 実をいうと私は、写真を信じています」を読んでいる。いろんな媒体に書いたものを集めたものなので、時代やテーマ、書いている年齢も、抱いている興味も私情も熱気も信条も変化に富んでいる。
電通の社員の身で、会社のスタジオを使って過激なヌード写真なんぞを撮っていて、上司に見つかり首になってから彼の写真まるけの人生が始まる。それが私が放浪の旅から帰って新しい仕事に就いたころと重なっている。自分の事で精一杯だったこのころ、彼の存在など微塵も知らなかった。80年代に入って、名前は知ることになるものの実態には触れることもなく噂を耳にするだけ・・。
図書館にたまたま企画コーナーに並べてあり、興味を持った。卑猥なことばや俗語がたくさん出てくるこの本を並べた司書に乾杯。こういう本は酒を飲みながら読むに限る。ボンベイサファイアをオンザロックでやりながら、工事の騒音の中でアラーキーの常識、良識を逸脱した世界へ、いざ闖入とまいりますか。
冒頭の70年代後半の「写真術入門」は面白く読んだ。
そのうち文章が怪しくなっていく。酔っぱらいながら書いているのか、
下らんダジャレが頻発してクサくなった。 90年代のものはさすがに面白い。
写真を撮るだけ撮りまくって知り尽くした男の、本音と写真愛が筆に乗り移り、明確に持論が述べられていって読み応えがある。
読んでいくにつれこちらの感性も揺さぶられ、ここの写真のようにかき乱されている。論理武装などせずにストレートに写真論を述べる。
その実践に基づく言葉には説得力がある。彼はセンチメンタリストで
その上にナイーブ。だからこそ写真が撮れる。
その徹底的な写真愛に圧倒されて「ヤッタモンガカチ」を思い、止めなかったものが最後に勝つという王道をつくづく思い知らされている。
「写真には撮った本人が必ず出る」という。何をどう撮ろうとも、それを選んでシャッターを押した本人が感じたものがそこにはある。しかし、モノを見るときの脳は余計なものを見えないようにフィルターを掛けているので、見えなかったものが写っているということが往々にして起こる。だからといってそれは単なる偶然などではないし、ましてや神の力などでもない。
私もしょっちゅう写真を撮ってブログに載せているわけですが、日記としての記録という意味とインサートカット的な要素もあって、あまり良い写真を撮ろうとは思っていない。シャッターチャンスを無視しているわけはないし、それなりに取捨選択もしている。
撮った写真には私の目と心が映し出されているわけで、否応になしに私情が写り込んでいるわけです。
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