♪ 冬ならば寄せ鍋がいい食うたびに違う食感ベストセッセイ
自分はエッセイを書いてる意識など全くないけれど毎日こうして文章を書いているので、エッセイストみたいだと言ってくださる方がいる。単に日記の延長で書いているに過ぎないのだが、内容は確かにバラバラだしたまに文体を変えたりもするので面白がってくれているようです。
そんなことが関係しているわけでもないのですが、エッセイ集を読むのが好きで時々図書館で借りてくる。今は2017年版の日本文芸家協会編の「ベストエッセイ」を読んでいる。新聞や雑誌などに掲載されたものを拾い集めてあり、その書き手は千差万別で内容もバラバラなところがいい。脈絡なく次の文章へと移っていくのが、文章が比較的短いものが多いので寄せ鍋をつついている感覚に近い。
おもしろい話ばかりだが、高橋源一郎の文章にこころをいたく揺さぶられた。
次男に脳障害の危機がおとずれ、医師に「おそらく重度の障害を背負って生きることになるだろう」と言われる。それまでは、親戚にそういう子供がいて、その子の話はしないし会いたくもないと思っていた。自分の子供がそうでなくてよかったと心底思う。久しぶりに祖母に会っても、誰だか分からず、人間もこうなってはお終いだなぁなんて思っていた。
それが、医師の言葉を聞いて、混乱し否定しようとし、それでも最後に、そのすべてを引き受けようと決心する。その瞬間、人生で一度も味わったことのない大きな、「喜び」と呼ぶしかない感情が溢れたという。なぜあれほどの「喜び」が生まれたのか。次男が急性の小脳炎になって生死の淵をさまよっていたとき、「弱さの研究」を始めたのは、その理由を知りたかったに違いないと気付く。
それから今まで自分の知らなかった場所に出かけ、社会から「弱者」と呼ばれる重度の心身障害をもった子の親、筋萎縮症の難病をもち仕事を辞めて24時間介護をする父親に話を聞いた。その二人ともが、自然に、当然であるかのように(打ち合わせをしたわけでもなく、そのような話しを促したこともなく)、「いい人生です。わたしは感謝しています。素晴らしい子どもです。もし、彼(女)にあの運命が訪れなかったら、わたしはいまよりずっと傲漫な人間だったでしょう。彼(女)のおかげで、わたしはやっと、他人の苦しみを理解できる人間になることができたのです」
そのことがいえるまでに、多くの時間がかかったのは事実だ。こういう風にいえない人もたくさんいるだろう。でも「それ」はあるのだ、起こるのだ。「弱さ」のほとりでは。「考える人」冬号
と、ここまで書いてネットでググってみたら、彼は離婚歴4回もあり、5人目の妻という事になる。離婚原因が彼の浮気というのがほとんどらしい。そして、人生相談ではこんなとんでもない回答をして、世間から批判を浴びたりします。
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この他にも、ギャンブル依存症についてのご質問に
「依存症の患者は、ギャンブルの何に惹(ひ)かれるのだと思われますか?
理解し難いかもしれませんが、実は「徹底的に負けること」です。
負けて負けて負けて死に近いところまで行くこと。
それが、彼らの(無意識の)願望です。
そこまで追いこまれ、ぎりぎりのところで死から生に戻ってくる。」
なんていう回答をして、「ギャンブル依存症問題を考える会」代表、田中紀子氏に「私が目にした中で、史上最悪の、無知と無理解、その上、無責任で残酷な回答だと思いました。」と言わしめている。
「エッセイにも嘘が混じる」というのは以前にも書いたことがありますが、人間は多様性のある生き物ですから、一つや二つの面をみてその人を判断することはできません。たとえ評価することがあって、評価するのはその人間の一部分を評価するに過ぎない。千人1万人の人全部を納得させることなど出来ない以上、批判を恐れず自分に正直であることがもっとも重要なことだと思う。
世間の目を忖度して、本当のことを言わない人が世の中には溢れていて、さもそれが当然と考えている。
この「ベストエッセイ」は様々な分野の人が、様々な視点でその人なりの意見なり感想を述べているという意味で、人間の多様性のほんの一部でも垣間見られるところが面白いのです。たとえそこに少し嘘が混じっていたとしても。
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