♪ 異化をせず捻りずらしも比喩もなく練りに練るべし歌会始
1月18日に皇居・松の間で行われた「2023年歌会始の儀」。遅まきながら私なりの解釈で入選歌の考察をしてみます。
個人的な感想ですが、心で思うだけでなく文章にすることでより明確になったり発見があったりしますので、あえて書いておくことにしています。
お題は「友」でした。
「温もりの残る手袋渡されて君は友より夫(をつと)となりぬ」
岡山県(73)
寒い日のワンシーン。何か二人にまつわることで言葉に出来ないわだかまりのようなものがあった。君がそっと、自分がはめていた手袋を渡してくれた。その温もりのある手袋によって、わだかまっていたものが取れた。若い日の回想シーンでしょうか。初句からの流れが自然で、その時の心境をサラッと表現出来たのは、その時間の流れのなせるものでしょうか。
「卒論は梶井だつたね君だけが四十二歳(しじふにさい)のままなる友よ」
熊本県(63)
「卒論は梶井だつたね」から始る構図が功を奏して、思わず引き込まれていく。文学青年だった君は、饒舌でもないが淡白でもない。現代社会では失われてしまったおおらかさと湿り気を帯びた梶井基次郎の短編小説。懐かしい詩情が文章全体にただよっている。世代や個性の違う数多くの作家たちに支持された。そんな時代の空気をこよなく愛し、折々に彼の小説を熱く語った彼はもういない。若くして逝ってしまった友を、今でも梶井基次郎の小説とともに思い出す。
「キスゲ咲く尾瀬の木道友の背のリズムで歩くすこし離れて」
東京都(62)
山仲間とニッコウキスゲの咲く尾瀬をゆく。もう何度も一緒に山を楽しんできたことが窺える。結句の「すこし離れて」というところにリアリティが出ていて、木道や湿原が歩いている様子とともに目に浮かんでくる。「友の背のリズムで歩く」のテンポがよく、一緒に歩いている気分冴えわいてくる。
「友だちはゐないんだよと言ふ君の瞳の中にわたしを探す」
新潟県(61)
還暦を過ぎて、友達をしみじみと思うことがある。淡交という間柄であってもずっとその気持ちは変わっていない。その友達がふと漏らした言葉に、年を経るあいだに微妙なずれが生まれてしまっていることに気づく。俺がいるじゃないかと目で語りつつ、彼の寂しさを思う。友達のあり方を思いながら、少し寂しい思いをしている。
「つくるでもできるでもなくそこにゐたあなたをわたしは友とよんでる」
神奈川県(55)
作るものでも作られるものでもない、一緒にいられるだけで十分に友達なのだ。そう思っていられることの幸せを思う。国境も人種も言葉もその障害にはならない。無条件で受け入れられることこそが友情の礎。
「なぜこの人を友と思うのか。そこには学校や職場での出会いなど、必ずしも自分が選んだわけではない偶然が作用している。友とはそうした縁が与えてくれるものだ」という感覚を詠んだ歌です。と作者本人が語っている。
「ともだちを友人と呼ぶやうになり子は就活をほどなく終へる」
茨城県(50)
こういう素直な歌が選ばれる。二句が五七の句またがりになっていて、流れてしまいがちな歌をうまくリズムに乗せて、親の子に対する気持ちがうまく出ている。何と言っても語順が成功している。一抹の寂しさと成長の喜びが交じり合った、微妙な心理がうまく詠まれている。
「『母さんも友だちできた?』と小一の吾子(あこ)に問はれし仕事の初日」 島根県(40)
いつも子供に言っていることを逆の立場になって言われている。子どもにとっては耳に残っている言葉を使ってみたに過ぎないのかもしれない。しかし、実際に言われてみると、照れくさいと同時にあなたに言われたくないという反発の気持ちもある。最初に子のセリフから始まって、その状況が後から分かる構図。仕事の初日の緊張感を、子の言葉によって引き出しているという構成がみごとに成功している。
「友といふ言葉を知らぬ一歳が泣いてゐる子の頭を撫でる」
京都府(36)
何かが変わり始める一歳の、訳知りのような仕草がほほえましい。上の句と下の句のつながりが自然で、流れがとてもいい。語順も良くて、「一歳」と具体的な言葉をいれたところがいい。これが「幼子」では印象が微妙に違ってくる。日常の何気ないところに目を止め、歌に詠んでいく。とくに幼子を育てている人にしか詠めないものが、日常にあふれている。俵万智さんにも「たんぽぽの日々」という育児のときの歌集があります。
「みづいろの絵の具ばかりを借りにきた友の見てゐた空を知りたい」
東京都(26)
思い出を詠んだものでしょうか。いきなり「みづいろの絵の具ばかり」と始まって、その水色の意味を読者と共に考える構図になっている。その友達の空は何を意味していたんだろうか。
「みづいろの絵の具ばかりを借りにきた」を序詞と捉えることもできる。未来の象徴としての空なのか、あるいはその時の心境を表しているのだろうか。
純粋なこころに思い描いていた空が、今ではどんなものになっているのか。汚れてしまっているのか、きれいな水色のままなのだろうか。
「友の呼ぶ僕のあだ名はわるくない他のやつには呼ばせないけど」
山梨県(14)
友との関係性をあだ名で表現して見せた。周りにはいろんなあだ名があって、いい意味のあだ名は案外少なく意地悪なものも多い。でも友達が自分に付けたあだ名は結構気に入っている。そのことで気ごころの知れた二人の関係が、誇らしいものであることがわかる。結句の最後が「けど」で終わっているのが今時の少年らしい。
昨今の短歌ブームについて、書評家の三宅香帆が「日々の合間にさらっと楽しめることのできる言葉の大喜利であり、疲れた読者を肯定するのが現代短歌の特性だ」と指摘する。その一方で、山田航(歌人)のように、「ささやかな癒しと微笑みをくれる言葉の集積という実用的なものとして受容されてしまうのは、作風の固定化をもたらす危険をはらむのではないか」と、危惧する人もいる。
ブームになんぞなると手垢で汚れてしまい、形も崩れていく。ブームとは恐ろしいものだ。ちょっとお洒落な趣味を持つ人たちのリクレーション的な娯楽とすれば、早晩飽きがくるに決まっている。面白がって弄び、類型的なものが巷に溢れ、新鮮さが失われれば興味も失せて、ポイと捨て去って忘れてしまうだろう。
でも、この日本語のすばらしさ、短歌の奥行きと多様性をもった表現のポテンシャルは、これからも日本人の心に根付いて受け継がれていくことも間違いないことでしょう。千年以上も続いていて、日本語が変化していくとともに歌の有様も変化していく。だからこそ続いて行くというもの。
短歌のあるべき姿は、まさに「不易流行」ではないでしょうか。
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