♪ 文学をカフェの卓子の染みほどに知りてゆっくりスプーンを回す
今年、令和6年の歌会始のお題は「和」でした。いつものごとく、入選歌の考察を私なりにしてみたいと思います。歳を取れば必ずしも上達するというわけでもない。余分な知識が邪魔をして、却って茶の木畠に入り込むようなことも無きにしも非ずです。
年齢を男女色分けしてみましたが、7:3で女性が圧倒的に多かったのは意外でした。
己が手で漉きたる和紙の証書手に六年生は卒業となる 栃木県(88)
栃木県は古くから和紙の産地として知られていました。技術継承として子供たちにも習う。その自分で漉いた和紙で作った卒業証書を受け取る様子が彷彿としてきます。作者は長年その和紙制作に携わって来た人なのでしょうか。或いは祖父か。少子、過疎化が山村の伝統産業に陰りを見せているなか、未来を託している子供たちが卒業していく。ハレとケと、矜持と不安とが綯い交ぜとなって重く伝わってくる。
かの日々に移り来し人等耕しし大和(ヤマト)と呼ぶ里アマンドの花 アメリカ(81)
大和とくれば直ぐに思い浮かぶ、古事記に倭健命が詠んだ歌として人口に膾炙している『大和は国のまほろば ただなづく青垣 山籠れる 大和しうるわし』。そんな古代の人々の拓いてきた土地に、アマンドの花を見つけたのでしょうか。ちょっと解釈の難しい歌ですね。アマンドの花は八重咲きのガーベラのことらしく、白いもこもことした花は清楚で気品があると感激したのでしょう。大和との取り合わせに新鮮味がある。
大和の歌は他にも、前川佐美雄の代表歌「春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ」がある。
呼びに来てくれたる人を追ひ越して電話に急ぎし昭和の夜道 神奈川県(75)
私と同年歳の作者。戦後何年かたって一部の家に電話が入り、その家の電話番号に掛けて、電話口に呼んでもらうことになっていた。そのために電話は玄関先に設置してあった。電話料金が高かったこともあり、急いで電話に出る必要があり、走って、呼んでくれた人を追い越したというシーン。
よほどのことが無ければ電話など掛かってこない。良くない知らせだったのでしょう。街灯もなく真っ暗な道を不安にかられながら走っている姿が浮かんでくる。それらのことが過不足なく詠まれていて、昭和という時代の表情をよく捉えていて秀逸だと思います。
和菓子屋をなりはひとして五十年寒紅梅に蕊をさす朝 香川県(72)
季節を先取りして作られる和菓子。特に練り切りの上生菓子などはその美しさは海外にも知られています。和菓子職人が自然の風物などを自分の感性で感じとり、和菓子に表現するのですから、つくられる和菓子は、つくり手の個性と感性が込められています。50年来の手わざによる「寒紅梅」は、最後に蕊を入れて完成となるのですね。
季節ものですから当然、寒い時期のもの。暗いうちから作業を始め、ようやくその自慢の一品が生まれようとしている。しののめのうす紅と吐く息の白さ、寒紅梅のやわらかな赤とその芯にさす黄色の取り合わせじつに美しい。意味のある、言葉一つ一つに無駄がなくすべてが語り尽くされている。
和だんすは母のぬくもり大島に袖をとほせば晩年に似る 埼玉県(71)
初句から二句で母を大きくとらえ、着物をこよなく愛し慈しんできた家柄であることが伝わってくる。母の思い出とともに、箪笥に納められている様々な着物。折々の行事や何気ない日々の中で交わされた言葉、その手触りや衣擦れの音が、積み重ねられている時間の中に満ち溢れている。
母は偉大であり、自分もそんな母の様にありたいと思う。母が最も好きだった大島紬に袖を通してみると、そんな母に少しは近づけたかとの思いがしみじみと湧き上がってくる。そして最初の、「和だんすは母のぬくもり」に戻っていく。
風琴の和音のやうに柔らかに多言語混じりあへる教室 福岡県(61)
オルガンかあるいはアコーディオンか。風が起こしているその音色は、打弦楽器とは違って自己主張をしない。周りの多くの要素をを取り込んで、天然染料で染められた布の様に暖かみがある。そして、風はことだまを運んでくる。そんな風がそよいでいるような、柔らかに多言語が混じりあっている教室なんて、なんと素敵な場所なんでしょう。
風通しが良くて明るい、自然そのものが溢れている空間。そこにあるすべてが共存し繋がり合っていて、それぞれがお互いを必要としている。まるで地中で繋がっている、森の木々の根っこのように。世界平和へのメッセージでもあり、人間の根源的なものへの憧憬でもある。
見逃した小さな小さな違和感の粒で自分が作られていく 千葉県(61)
今まで歌会始では、こういうタイプの歌は選ばれてこなかったような気がします。決して新しい視点の歌でもないし奇をてらったものでもない。普遍的なものが歌われていて、私はこの歌が一番好きです。何よりも初句の「見逃した」から始まるのがいい。違和感を感じることは結構あることですが、気づかなかった違和感の方により重要なものが隠されているという。そんな小さな小さな粒々に飲み込まれていって、自分が自分で無くなっていく。一体どんな違和感なのか。
誰も言わない触れようともしなものが、実は計り知れない大きな問題を孕んでいると、作者は気づいたのです。全ての事柄には裏がある。よくよく注意していれば気づくそのパラレルワールド。それを知ってしまった以上、自分が今までの自分ではいられなくなった。社会風刺と、人間の不条理を詠ったものとして、歌会始の歌の白眉だと思います。
花散里が一番好きと笑みし友和服の似合ふ母となりぬる 石川県(32)
花散里(はなちるさと)は『源氏物語』の巻名のひとつ。文系女子の日常風景を軽やかに詠んだ。源氏物語と着物の取り合わせは、あまりに着き過ぎな感じがぬぐえません。なぜこの歌が選ばれたのか。結句の「和服の似合ふ母となりぬる」が時代に反して、今の日本に対するアンチテーゼの色合いをもって詠まれているということでしょうか。
そして、NHK大河ドラマ「光る君へ」を踏まえているのは見え見えでしょう。宮中においても、忘れられては困りますよという声が聞こえてきそうで、忖度したのでしょう。宮中主催のものですから、そういうことはあって当然です。
32歳という年齢にも意味があって、これ以上高齢でも若すぎても選ばれなかったかもしれません。
目を瞑り一分間を祈るとき皆が小さき平和像なり 京都府(21)
黙祷をささげる場面。自然災害などではなく戦争で亡くなった人を慰霊する式典でしょうか。広島や長崎の原爆投下記念日か、或いは終戦記念日の戦没者追悼式かも知れません。「皆が小さき平和像」ととらえたところが新鮮です。なかなかこういう風には詠めないものです。侵略、覇権、統治に、宗教やイデオロギー、民族紛争やジェノサイド。様々な側面を持つ紛争という名の殺し合い。他の生物とは違って、知恵があるはずの人間がそれを止めることができない。
ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナなど、遠い場所で起きている戦争の生々しい映像が食卓に映し出されて、嫌でも目に入って来る。しかし、平和の有難さは祈ることでしか表すことができない。
「それいいね」付和雷同の私でもこの恋だけは自己主張する 新潟県(17)
初句に「それいいね」と明るい口語で引き付けて、言葉巧みにそれを逆転させていく手法が見事に決まっていて、若者らしいとてもいい歌になっています。SNSにとっぷり浸かり、自己をどこかに置き忘れてしまっている現代の若者や一部の社会人。表面的なことだけを見て判断する癖が付き、物事を深く考えようとしない。周りに合わせることで個を抑え込みながら、自己の内面の問題を外に逸らそうとする。その風潮に気づいている作者は、恋だけは別なんだよと声を上げる。
この歌は、今の若者たちが抱えている問題を詠んで客観性とすぐれた自己洞察の歌として、人口に膾炙して多くいくのじゃないでしょうか。
☆ 2017年 歌会始入選歌の考察
☆ 2018年 歌会始入選歌の考察
☆ 2019年(平成最後)歌会始入選歌の考察
☆ 2020年 入選歌(この年は応募せず、考察はしていない)
☆ 2021年 歌会始入選歌の考察
☆ 2022年 歌会始入選歌の考察
☆ 2023年 歌会始入選歌の考察
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