♪ 猫なるは人たらしなる希生物暗に主役の爪を隠せり
今読んでいる「作家と猫」(平凡社刊)が、とっても面白い。
今も昔も、猫は作家の愛するパートナー。昭和の文豪から現代の人気作家まで、49名によるエッセイ、詩、漫画、写真資料を収録。笑いあり、涙ありの猫づくしのアンソロジー!
猫好きなら納得の、膝を叩いてうなずいたり、驚いたり、感心したりで、もうたまらんです。その一部を抜粋してみます。
★開高健
言葉を眺めることに疲れてくると私は猫をさがしにたちあがる。猫ほど見惚れさせるものは無いと思う。猫は精妙をきわめたエゴイストで、人の生活と感情の核心へしのびこんでのうのうと昼寝をするが、ときたまうっすらとあける眼はぜったいに妥協していないことを語っている。
媚びながらけっして忠誠を誓わず服従しながら独立している。気ままに人の愛情をほしいだけ盗み、味わいおわるとプイとそっぽを向いてふりかえりもしない。爪の先まで野生である。これだけ飼いならされながらこれだけ野獣でありつづけている動物はちょっと類がない。 |
★向田邦子 「マハシャイ・マミオ殿」
マハシャイはタイ語で「伯爵」のこと
偏食・好色・内弁慶・小心・テレ屋・甘ったれ・あたらしもの好き・体裁屋・嘘つき・凝り性・怠け者・女房自慢・癇癪持ち・自信過剰・健忘症・医者嫌い・風呂嫌い・尊大・気まぐれ・オッチョコチョイ・・。
きりがないからやめますが、貴男はもことに男の中の男であります。私はそこに惚れているのです。 |
向田は、東京都・青山のマンションで3匹の猫と暮らした。一人暮らしを始めた時に実家から連れてきたメスのシャム猫の「伽俚伽(かりか)」、旅行先のタイで一目ぼれしたコラット種のオス「マミオ」とメス「チッキイ」。伽俚伽とチッキイが相次いで死に、向田が台湾での飛行機事故で亡くなった時、その帰りを待っていたのはマミオだけだった。
〈猫と一緒に暮らしていると、だんだん猫に似てくる。歩くとき足音を立てなくなる。怠けものになり、団体で行動するのが大儀になる。誰かに忠誠を誓うのが面倒になり、薄目をあけてあたりをうかがい、楽なほう楽なほうと考えるようになる。年とともに肥えてくる〉「オール讀物」
★永六輔
ピーター、ティミィ、ボサノバ、ワルツ、タンゴの5匹の猫を飼っている。
5匹ともネズミをとらない。ネズミがいないからではなく、いてもとらないと断言出来る。
猫というのは生まれて初めての体験がその習性になるからである。つまり、生まれて最初の食べ物が親猫のとったネズミでなければ以来ネズミを喰べない。
だからネズミにじゃれることはあっても決して敵として戦うこともなく、その時点で野生は失われている。 |
★伊丹十三 長々と犬と猫の違いを描いた後・・
うろ覚えであるが、たしかジャン・コクトオの言葉にこういうのがあったと思う。
「女は猫と同じだ。呼んだ時には来ず、呼ばないときにやって来る」
中略
コクトオのいうとおり猫というものは、最良の意味において女と似ている。
全く人間を無視したり、憎たらしいほどのよそよそしさと、膝に乗っかって喉を鳴らしたり、人の顔を見上げたり、満足げに尻尾を振ったりする時の甘ったれた愛らしさとを、猫はなんと巧みに使い分けることだろう。
そうして、また、この使い分けのなんという配分の良さ、タイミングの良さ。まったく天衣無縫という他ない。
中略
実に猫というのは偉いものではないか。あんなに何の役にも立たぬ、いや、純実用的に考えるなら邪魔っけな存在でしかない筈のものが、おのれの魅力だけで世を渡っている。犬のように人間に媚びるわけじゃない。なんとも我儘放題に、むしろ、その家の主のような態度で世を渡っているではありませんか。そんなことは私にはとてもできない。 |
ここまで書きかけたが、とても長くなりそうなので・・。あまりに面白い話がたくさんあって、とても書ききれるもんじゃない。
特に、男の書いたものなどは別格で、「暴王ネコ ── 大佛次郎」、「猫の喧嘩(ごろまき)── 小松左京」は猫の別の面をみせてくれて面白い。
谷崎潤一郎の「客ぎらい」もおもしろく、猫のしっぽが自分にもほしいという、まったく納得の名分であります。吉本隆明の文も、猫の奥深い魅力、神秘的なところに魅かれるし、三谷幸喜の「おっしー」を抱いて・・・/最期に見せた「奇跡」には思わず涙が・・。井坂洋子の「黒猫のひたい」はもう、涙なしでは読めない。
つづきはまたいずれ書くとして、この辺で止めておきます。猫好きは是非、手に取って読んでみてください。
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