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カテゴリ:八房之記憶
神さまについて考える。
そしてこの文が生まれる。 「神さまは、灰や塵にひとしいわれらに、恵みの雨を与える。 きまぐれと、殉教者を増やすために。」 よく自称詩人の日記を拝見する。かっこいい言葉で飾られているし、なんか意味があるようにも読める。まぁ文章は誤解と陶酔で出来ているから、別にどうでもいいことだが…活字だと、どんな文でもいい言葉に見える。 でもその詩人たちは、生活のため、お金のため、主義主張を「夢」の位に棚上げして、人生の9割を現実世界で生きて、残りの1割をこの電子世界で生きる。 沢山の言い訳を呟きながら。 16世紀の言葉で「詩人たちは食事の時間が短くなったのをとても嘆いている」というのがあるが、僕は元来詩人とはそういうものだと思っている。 綺麗な言葉を羅列しただけでは詩にはならない。 ましてやぬくぬくとした部屋で「愛」だの「死」だの語るに至っては、滑稽としか思えない。 昨日酒の席で「自分に自信がない」人の話が出た。 「結局それって、自分の大きさが全然判ってないんだよね。 自分がどんなに小さいか判っていたら、そんな言葉吐かないもの」と僕。 場内は苦笑い。説明をしたら、やっとご理解戴けたというが顛末があった。 僕は自分の存在が小さくて無力であることを何度も教え込む。 だから、自分が「こんな程度」であることを知っている。 だから、僕は自分に自信がある。 自分がいままでやってきたこと。何百本も物語を書いてきた事実。何百本も映像作品を作っている事実。それは評価されていい。 でも、それ以外は「こんな程度」。 自分が「こんな程度」だから、外部から何にも期待しない。 もちろん神さまにも期待しない。 「神さまは、灰や塵にひとしいわれらに、恵みの雨を与える。 きまぐれと、殉教者を増やすために。」 僕は神さまが、所詮神さまでしかない事実を知っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006/01/04 10:05:47 PM
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