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カテゴリ:八房之記憶
前項のネット猿の話の反響はさぞかしすごかろう、と思っていたら、ありゃりゃ、さすがにネット猿。傷の舐めあい癒しあいが得意技。全然反論きやしない。拍子抜けしたものである。
前コメントの通り、ネット猿ではない人間の方たちからは「精進精進」と言う声。流石。 他にも「HASIRAさんの言いたいこと、よく判ります。そして自らを傲慢に見せ、河北の山は一山百文、程度のネット猿の猿山に、危険を顧みずに餌を与えようとする行為、素敵です」と戴いた。ありがとうございます。 でも、ネット猿からは一通もこない。あぁそうか。猿だから、前の話しがわかんなかったのね。きっとそうね。 mixi友人から、お手紙を戴いた。 「ネットでは育つのに限界がある。どこか匿名の世界で判断されるならばもしかしたら見た人は厳しい意見を言えるかもしれない。しかし、その意見を聞き入れることは現実世界で目の前で厳しく言われて納得しないとネット猿からは抜けられない…など、色々考えてしまいました。 」 …というもの。愛らしい顔の、とても頭が回るいい娘さんです。 彼女は自分自身をネット猿と言っていたし、いままでの彼女自身はネット猿だったのかも知れない。でも、こんなにいろいろ考えていれば、もう進化の過程です。 僕は嬉しくなって、調子に載って返信。 >ネットでは育つのに限界がある。 ここに疑問だ。そうだね、当初にネットありきという部分がある。 ここがおかしい。こんなのは単なるコミュニケーションツールに過ぎない。モノを作る道具ですらない。…なのに、ネットを使って何かやったりしている(あるいはしようとしている)猿がうようよしている。 「そもそもパソコンは道具だ。頭ではない」って、いまだに判らないネット猿が多すぎる。やっぱり猿に何を言っても無駄なのか? >どこか匿名の世界で判断されるならばもしかしたら見た人は厳しい意見を言えるかもしれない。 でも結局、観ている人もネット猿なんで、猿同士の傷の舐めあいにしかならない。故に発展はない。 「ぬくぬくと闘うことを忘れた猿」と「自分をライオンと思いこんだ猿」。 「ほら、あたしってこーゆー人だからぁ」とか、「(はじめてする職場に)時給は900円下さい」とか、なんだとかかんだとか言うバカモノ…失礼、オオバカモノのように、自分で自分の価値を決めているのがネット猿。評価は、他人がきめるものであって、自分じゃあないでしょ。 話は飛ぶが、僕は「アート、アート」いう人間は大ッ嫌いだ。ホント嫌い。「アート」言う連中に限って薄っぺらい。 そんな言葉で人間の思考・作品を片付けるなよ、と言いたくなる。 はい。ここで断言します。 僕の「アート」という言葉は、差別用語だと思って下さい。明らかな蔑視です。ベッキーは好きです。眼鏡かけてスーツ着て文学少女役やっていた時は最高でした。そんなことはどうでもいい。ベッキーです。いや。 「アート、アート」語る者よ。アートの定義を述べてみよ。 言えない。つまりそんな言葉に頼って何も考えない癖がついている。退化して猿になっている。 同じ言葉でも「芸術」と言っていた時代はよかった。 僕も二十年前には「芸術論争」をよくしたものだが、すべて手あかのついた作品を並べていた。お互いの顔を突き合わせて、机を叩いて話…というよりむしろ喧嘩をしていた。 当然お互いの信じるものが違うので、話し合いは決裂。もやもやとしたものだけが胸中に残り、それを吐き出すためにまた次の作品を作った。 つまりこの場合の「芸術」は、言葉としては同じものだが、それによって次の作品を生み出す原動力にもなった。でも「アート」という響きにはそれがない。せいぜいが「アート驚くためごろう」というネタを捻出することしかできない。不毛。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006/02/12 10:12:40 AM
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