えんつあい 空心菜をかってきた
これは 初めて 買ってきた
いもの蔓みたいな 野菜らしいが 東南アジアでは よく 利用されているらしい
昔は いもの蔓を食べた人もおおいとおもうが
いもの蔓で そのまま たべれる野菜とのこと
簡単で どんどん 増える 優れた 野菜らしい
菌ちゃん畝てつくると 良しとかかれていたが
とりあえず どこで作ろうと 良しとのこと
と いうことで 今年から 空心菜 つくっていこう
夏の野菜として 良いらしい
ということで 6月には 種まきするかな
2024年
04月20日 hcで 空心菜の種を買ってきた 安い種で 夏の野菜として 良いらしい
05月20日 空心菜 家で 種まきをしておいた 電気であたためて 発芽させよう
05月27日 空心菜 発芽して 安定したので 畑に移動しよう
05月28日 空心菜 残っている種は 畑で直に種まきしておいた
06月01日 空心菜 発芽した苗は みずやり すこしやっておく これで 大丈夫かな
06月10日 空心菜 発芽した苗 畑に移動しよう 初めて 空心菜 栽培してみよう
06月12日 空心菜 これで うまくいくはずだけど 実際には 苗が 消えてるのがある
水不足みたいだなあ 水やりしなくてもようようにしてみるかな
06月15日 空心菜 みずやり しっかりしている 発芽してきてるのもあり
06月16日 空心菜 これで なんとか 発芽してくれるだろう 雨も降り続きそう
06月18日 空心菜 すこしづつ 発芽してきている でも まだ 少ないなあ
06月20日 空心菜 発芽してきているのが 半分くらいになってきている
06月22日 空心菜 水際に穴をあけて種をまいていたので 発芽はちゃんとしてきている
06月25日 空心菜 これで 発芽したのが たくさんそろってきている 成育はゆっくりとしている
06月27日 空心菜 発芽した苗は 成育はゆっくりしている まあまあ のんびりしていこう
06月28日 空心菜 1回目は 種まきしたが 失敗してしまった これは 2回目の物
2回目のものは hcではもう 売られてなくて amazonで手に入れて 再度種まき
06月30日 空心菜 g-03には20本 g-07には 20本が発芽してきている
07月05日 空心菜 g-03のもの なんとか20本 池の周りに生えてきている まだ小さいな
07月10日 空心菜 g-07のもの なんとか こちらも20本の苗ができている 2つで合計40本
初めての夏の野菜の空心菜 しばらく 成育待ちだなあ
07月11日 空心菜 はじめての栽培なので ゆっくりとみていこう 夏の葉物はめずらしい
07月15日 空心菜 ようやく 成育が開始されてきている まあまあ 大きくなってきている
07月17日 空心菜 まあまあ 成育はよくなっている 予定とおり まあまあだなあ
07月20日 空心菜 これで あとは 収獲していく予定なり なんとか 育っている
日本銀行券 おぺんきょう その021
歴史
製造および発行開始の告示が行われたものの実際には発行されなかった新券種
製造には着手したものの発行開始の告示が行われなかった新券種
- 甲貳百圓券(武内宿禰)は1923年(大正12年)の関東大震災の直後に紙幣不足の懸念から、横浜正金銀行券のデザインや既製の武内宿禰の肖像を流用して製造された[107]。印刷局が甚大な被害を受けたことから大阪の昌栄堂印刷所に委託して急遽印刷されたが、懸念された紙幣の不足はなく印刷局も復旧したため、発行されずに処分された[107]。のちに発行された丙貳百圓券のデザインは、この甲貳百圓券のデザインを流用・一部改変したものとなっている[107]。
- は拾圓券(和気清麻呂)・い千圓券(日本武尊)・い五百圓券(武内宿禰)は、1945年(昭和20年)の終戦直前に緊急時の紙幣需要に対応するために紙幣の製造効率を高めた紙幣として企画され、終戦直後の混乱の中製造された[108]。しかしながら余りにも作りが貧弱であり銀行券としては不適当とみなされ、大蔵省告示も行われないまま発行中止となった[108]。規格やデザイン等に関しては、は拾圓券はサイズをろ拾圓券より小型化したもの、い千圓券は甲千圓券のデザインを流用・一部改変したもの、い五百圓券は印刷局が手掛けた他の紙幣の版面を繋ぎ合わせたデザインとなっている[109]。
- A千圓券(2次案)(日本武尊)については、後述のA千圓券(1次案)の検討後に再度発行が企画され1946年(昭和21年)に製造が行われた[110]。しかし甲千圓券の図案・原版を再利用し、新円標識の加刷と地模様の彩色変更を行った程度のものであったため、既に兌換制度が廃止されていたにもかかわらず「日本銀行兌換券」の文字と兌換文言(此券引換に金貨千圓相渡可申候)が残っているという不都合があった[110]。また依然インフレーション助長の懸念もあったため、告示もされず発行見送りとなった[110]。
デザインの検討は行われたものの製造が行われなかった新券種
- 1945年(昭和20年)の終戦直後から、他のA号券と同様にA千圓券(1次案)・A五百圓券の発行の準備が進められていた。このときの図案原案は、伐折羅大将像(千圓券)、弥勒菩薩像(五百圓券)というものであった。しかしGHQからこれら高額券はインフレーション助長の可能性があると指摘され、さらに肖像にもクレームがつき告示も製造も取りやめとなった[111]。なお、このときの千圓券の(肖像以外の)図案はA十円券に流用された[111]。
- B拾円券(大久保利通)、B五円券(福沢諭吉)およびB壱円券(二宮尊徳)のデザインが1946年(昭和21年)にB号券として準備されていたが、インフレーションの進行により高額券から優先して発行している間に十円青銅貨・五円黄銅貨・一円アルミ貨が発行されたためこれらの紙幣は製造されなかった[112]。B号券としては高額の千円券から五十円券までの4券種のみが発行された[112]。
- B壱万円券(A案)(法隆寺西院伽藍全景、笏なしの聖徳太子)は、1953年(昭和28年)に考案されたが高額券発行によるインフレーション助長の懸念が根強く製造には至らなかった[113]。そのB案(笏持ちの聖徳太子)がC壱万円券として1958年(昭和33年)に発行された。A案の透かしはC五千円券の透かしとして採用された[113]。
- D号券には発行された3種類の他に、D拾万円券およびD五万円券の発行が検討されていた[114]。それぞれ聖徳太子と野口英世のデザインだったが、これも結局製造が行われなかった[114]。
発行された券種とは別デザインで不採用となったもの
- 乙百圓券(A案)(藤原鎌足)は1923年(大正12年)に製造準備が行われたものの、未完成の原版や試刷券、検討資料も含め関東大震災の影響で全て焼失してしまい発行されず、結局1930年(昭和5年)にB案のデザインの乙百圓券が発行された[115]。表面右側に藤原鎌足の肖像、左側に談山神社の風景を描いたもので、用紙には菊・桐の図柄の透かしと染色した蚕糸を漉き込んだものであった[115]。
- C千円券(A案・B案)(A案は聖徳太子続投、B案は渋沢栄一)については、A案は聖徳太子の続投はおかしいとの理由で不採用、B案の渋沢栄一も最終選考に残ったものの、当時は偽造防止に、主に肖像にヒゲがある人物が用いられていたため不採用となり、最終的にC案の伊藤博文が採用された[116]。採用を見送られたデザインはお札と切手の博物館の展示物で確認することが可能である。
はた坊