わけぎ 9月には 植え付けだ 東日本大震災895日後に
2年前 ワケギの予定 種の保管は納屋でやっている たくさん種ワケギは用意しているが畑の放置している ワケギを見てみると 発芽しているのもある庭のわけぎ 発芽しているg-22のわけぎ これも発芽したm-20のわけぎ これも発芽した納屋のわけぎ これは大量にある 発芽はまだ在庫は大量にある わけぎの植え付けの予定は8月21日だったけど今年の8月は猛暑の予定 猛暑が過ぎるまで植え付けは延期しよう第一弾のわけぎ g-22 09月11日 g-22の畑で昨年のわけぎを植え付けした09月18日 発芽していたので無事09月25日 どんどん発芽してきている10月02日 これで安心 追肥した10月23日 収穫できるくらいに大きくなってきている11月27日 大きく 青々としている 収穫できる12月11日 わけぎ 収穫はokとなっている12月30日 すこし収穫をしておく第二弾のわけぎ m-08 09月18日 残りのわけぎm-08の横にならべておく09月25日 発芽しつつある 10月02日 発芽したのでm-08の畝に移動した 10月23日 こちらは 生育は遅い まだ 小さいなあ11月27日 すこし大きくなってきているが まだ 小さいかな 小ぶりのまま12月11日 わけぎ 収穫はokとなっている わけぎ 第1-2弾とも 収穫できる12月30日 収穫を開始 わけぎ いい感じになっている昨年01月09日 2回目の収穫をしておく 大きくなっている01月15日 3回目の収穫をしておく 美味い01月21日 4回目の収穫をしておく 出来具合も良い01月29日 5回目の収穫をしておく まあまあ02月05日 6回目の収穫をしておく いい感じ02月12日 7回目の収穫をしておく 新鮮だあ02月19日 8回目の収穫をしておく 良く分ケツしている02月19日 8回目の収穫をしておく 春らしいわけぎになってきている03月04日 9回目の収穫をしておく まだまだ収穫はできそう03月11日 10回目の収穫をしておく どんどん収穫するぞーーー03月18日 11回目の収穫をしておく まだまだ どんどん収穫するぞーーー03月25日 旅行で収穫できず04月01日 12回目の収穫をしておく まだまだ収穫するぞーーー04月08日 13回目の収穫をしておく これで 柔らかさもなくなってきたので お終いに 在庫は大量 たくさんあるーーーーう が 柔らかさがなくなってきた で これで お終いとしよう残っているワケギは雑損さんに負けている 全部引っこ抜いて保存 夏に再度植えつけよう05月13日 残っていたワケギ 追加でほりあげておいた 納屋において 保存中 08月19日 在庫のわけぎ 発芽してきているぞ今年も9月には 植え付けしよう 在庫はたっぷりとある猛暑が続いたので 植え付けは 遅くなり10月となった10月07日 やっと畑のm-08に植え付けをしておいた 数は100くらい すこし減った10月20日 わけぎ 発芽してきている これで安心なり11月25日 大きくなりだした そろそろ 収穫もできそう12月02日 雑草がおおいので 除草をしておいた12月09日 その後も 分葱は元気なものだ いい感じ12月23日 もう 収穫してもよさそうだなあ まあ これだけあれば かなりの収穫をできる そろそろ 収穫しよう今年01月02日 初の収穫したあ01月06日 九条ネギがたくさんあるので 収穫はなし02月10日 そのご 雑草も生えているので すこし雑草を取り除いた やや 黄色に02月11日 2回目の収穫をした03月10日 3回目の収穫をした03月20日 4回目の収穫をした03月24日 5回目の収穫をした03月31日 6回目の収穫をした04月08日 7回目の収穫をした04月14日 8回目の収穫をした04月21日 9回目の収穫をした これで おしまいに残っているわけぎは 黄色くなりつつある そろそろ 抜き取ってしまい 納屋で乾燥して 保管しよう8月の後半くらいに 再度の植え付けをする 予定05月03日 引っこ抜いておく 畑ですこし 乾燥する05月04日 家に持って帰る 乾燥させて 納屋で保管する植え付け用の根っこ 大量に収穫した いい感じ秋には 大量のわけぎ どんどん 植え付けよう07月15日 干している分葱 状態も良い やや青みがついてきている08月22日 その後も 無事で 保存の状態も良いなあ やはり 外で保存が良い わけぎ今年は納屋でなくて 外の壁の横に干している保存の状態はこちらのほうが 風通しが良いので 元気に見える東日本大震災 3月11日発生8月23日は 既に895日後となった 阪神大震災は、1月17日で発生から18年 武田さんのブログ--------------------------------------------- 【普通の歴史】3-2 一等国の時代・・・満州国建国の背景 「mansyu01tdyno.337-(14:12).mp3」をダウンロード満州国の建国から、上海事変、南京事変、そして日中戦争になるところが、近代日本の歴史や中国との関係で一番、難しい。そこでまずは「本質だけを書き、できるだけ詳細に入らない」ことを心がけたい。言えば「木を見て森を見ない」ということにならないようにする。その理由は、日露戦争までは侵略戦争かどうかはほとんど問題は無いし(日本が独立しただけ)、第一次世界大戦は日本が参戦したと言っても主戦場はヨーロッパで日本はついでに参戦したにすぎないからだ.つまり、 1) 日清戦争 明治中期で単なる戦争 2) 日露戦争 防衛戦争で日本の生死がかかっていた3) 第一次世界大戦 ついでの戦争 (日本が完全に独立して一等国入り)だったが、その後の戦争、 4) 満州国建国、 5) 上海・南京事変から日中戦争 6) 大東亜戦争は少なくとも見かけは日本が戦争をしかけたように見えるので、「歴史認識」に大きな違いが出てくるからだ. つまり、日露戦争、第一次世界大戦は日本にとって「受け身の戦争」だったが、満州国建国からは日本の「積極的戦争」のように見える。だから、この時期の本質を見極めることがとても大切になる.ゆっくり整理しながら進みたい.・・・・・・・・・「満州」というのは中国の万里の長城の北、朝鮮の北にある。万里の長城の北ということは「中国ではない」ということを示している。これがまた日本の近代史にも大きな影響を与えた。もし、日本と中国の関係が難しくなったときに中国を支配していたのは「外国の人=満州民族」だった。清(その当時は「後金」といったが)が中国を侵略したのは、ちょうど徳川幕府ができた頃で、それまで中国の王朝だった明(みん)を追い出して外国人の政権を作った。つまり、日本では「清」という国は中国の国とされているが、清は満州の国で中国は占領されていた状態だった。でも、200年以上、首都を北京に移していたのでもともとの国の満州はすっかり寂れていたい。そしてロシアが満州に進出すると「祖国を明け渡す」という形で満州はロシアが支配するようになった。 一方、そのころの日本は日露戦争に勝ち、朝鮮を併合し、第一次世界大戦でドイツを東アジアと太平洋から追い出し、ヨーロッパ国家と同じく「世界の一等国」になった。そのころの世界の一等国は、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシアというところだったので、日本もイギリスやドイツをまねて行動をするようになったし、日本人も「せっかく一等国になったのだから、一等国のように振る舞うこと」を求めた。 当時の世界の一等国の標準的な振る舞いは、 1)海外に植民地を持つこと、 2)軍備を整えて常に他国との優位性を保つ、 3)自国に有利であれば他国を占領し、植民地か属国にする、ということだった。すでに植民地を多く持つイギリス、オランダ、スペイン、ポルトガル、アメリカ、フランスはどちらかというと「植民地の死守」をして、ドイツ、日本のような「遅れてきた国家」はなんとかして他の国と同じように支配権を広げようとした。そんなとき、つまり日本が一等国になり、台湾、朝鮮、千島列島、南洋諸島を占領して「頑張っていた頃」、「願ってもない話」が飛び込んでくる。それが「滅びつつある清の皇帝が、中国から引き揚げて満州帝国を作り、その皇帝になりたいと言っている」ということだった。すでに清は滅び、次の皇帝になるはずだった溥儀は、中華民国の蒋介石の軍隊が歴代の清の皇帝・・・それはまさに自分の父祖であったのだが・・・の墓が爆破され、その骨が飛び散るのにショックを受けて父祖の地の満州に新しい国を建国したいと願った。 一等国になり、イギリスやアメリカと同じように振る舞おうとしていた日本は、満州国を建国し、溥儀氏を皇帝に治め、日本の影響を満州にも及ぼしたいと考えた。この考えは後にアーリア人や反日日本人に否定されるが、私は普通の考えのように思う。ここまでの日本の歴史の整理では、満州国の建国に日本が力を出したのは、ヨーロッパ、アメリカの当時の政治から言えば、むしろ控えめのように見える。この問題はもう一度、検討する予定。また、満州帝国建国の歴史の話になると、張作霖の爆死など「事件の発端」について年号や経緯を覚えさせられるが、むしろ私たち歴史家ではない人にとって大切なのは個々の事件ではなく、満州帝国ができ、日本が実質的に運営したという事実を理解することだと思う。 (平成25年8月20日)武田邦彦ふむふむ はた坊