なす 花も なかなか綺麗なり まだまだ 実はついている
なすの花なかなか 綺麗なものまだ 秋になっても 花がさいている11月まで実がつく予定だけどさすがに 実も少なくなってきたナスの住みやすい環境 果菜類の中でも、特に高温性の作物です。発芽適温 20~30℃とされ、最低限界温度は11℃、最高限界温度は35℃です。ナスの種子は変温操作(昼間30℃、夜間20℃)をするとよくそろって発芽します。生育適温 昼23~28℃、夜間16~20℃。最低限界7~8℃で、霜には非常に弱くマイナス1~マイナス2℃で凍死します。最高限界は40℃です。根の伸長適温 28℃、最低8~10℃、最高38℃。根毛発生の最低は12℃、最高38℃です。花粉の発芽、発芽管の伸長 適温は20~30℃で、最低限界温度は15~17℃、最高限界温度は35~40℃です。光飽和点 約4万ルクスと果菜類のうちでは割合低い部類ですが、弱光下では軟弱徒長となり、花の発育が悪く、落花は多く、果実の発育は悪くなり、果実の着色も劣ります。ほかの野菜に比べて、着色のため特に紫外線を必要とします。 ● ナス花芽分化および開花結実の生理生態 (1) 花芽分化 一般に播種後30日ごろの本葉2~3枚展開、草丈4cmぐらいの時に花芽を分化し、8~9葉で第1花を着花します。その後5日ぐらい遅れて第1花の2節上に第2花の分化が認められます。 子葉展開後30日の6~7葉苗では、6花の分化が認められ、第1花の着生している主茎上に3花、第1花のすぐ下の第8節のわき芽が伸長した第1側枝上に1~2花、その下の節位の第7節から発生した第2側枝上に1花の分化が認められます。 子葉展開後40日の10葉苗では、21~23花の分化が認められます。 子葉展開後50日の12~13葉苗の第1花開花時では、48~50花の分化が認められます。 実際栽培では3本仕立てがとられ、第1花の開花期までの育苗期間中に36~37花の花芽が分化していることになります。 1,2,3,……は着果順序 着果習性として第1花が第7葉から第9葉ぐらいの節間に着生し、その後は2葉おきに着花して主茎となります。 主茎の第1花のすぐ下の葉腋からわき芽が伸長して側枝となり、その第2~3葉の節間に第1花を着生し以後2葉おきに着花していわゆる第1側枝となります。以後同じくその下から第2、第3側枝がでます。 (2) 開花、結実の生理・生態 開花 ; 早朝から午前中にかけて開花。若干午後開花します。花の寿命は3~4日です。 開葯 ; 開花にやや遅れて、葯先端が開孔(花弁半開から完全開花時)します。 受粉 ; 多くの花は自家受粉します。下向きに開花するため、葯の小孔から花粉が落ち、柱頭について受粉します。 花粉の発芽 ; 柱頭上で発芽し、花粉管を伸ばし、24時間で7mmぐらい、約48時間で子房内に入ります。子房中の胚のう内で受粉が行われ、受粉後50時間ぐらいで受精を終わります。雌しべの受精能力は開花直後から2~3日間です。 (3) 開花結実の条件 温度 ; 日最高気温が20℃以上を持続するようになると正常な開花、結実が可能で、30℃くらいまでは悪影響はありませんが、35℃以上で結実障害を起こします。花粉発芽適温は20~30℃です。 光 ; 光量不足では同化量が減少し、栄養不良の結果、短花柱花(雌しべが雄しべより短い)が多発し結実性が低下します。 養水分 ; 不足すると栄養状態が悪くなり短花柱花が発生し、落花が多くなります。 (4) 花の形態と結実との関係 正常花は大型で色濃く、花柱が長く、開花時には柱頭が葯の先端より長く突出しています(長花柱花)。そのため柱頭上に容易に受粉されます。しかし短花柱花は柱頭が葯筒内に隠されており、花粉粒はほとんど葯筒内に落花することがなく、柱頭上に受粉される機会が極めて少なくなります。 茶 おべんきょうその17喫茶の歴史中国南北朝時代まで茶の原産地については、四川・雲南説(長江及びメコン川上流)、中国東部から東南部にかけてとの説、いずれも原産地であるという二元説がある[32]。中国で喫茶の風習が始まったのは古く、その時期は不明である。原産地に近い四川地方で最も早く普及し、長江沿いに、茶樹栽培に適した江南地方に広がったと考えられる[33]。しかし、「茶」という字が成立し全国的に通用するようになったのは唐代になってからであり、それまでは「荼(と)」、「茗(めい)」、「荈(せん)」、「檟(か)」といった文字が当てられていた[34]。書籍に現れるものとしては、紀元前2世紀(前漢)の『爾雅』に見られる「檟」、または、司馬相如の『凡将篇』に見られる「荈詫(セツタ)」が最初とされる。漢代の『神農本草経』果菜部上品には次のような記述がある。苦菜。一名荼草。一名選。味苦寒。生川谷。治五蔵邪気。厭穀。胃痹。久服安心益気。聡察少臥。軽身耐老。陶弘景は注釈書『本草集注』の中でこれを茶のことと解した。これに対して顔師古は茶に疾病を治癒する薬効は認められないとしてこれを批判し、さらに唐代に編纂された『新修本草』も茶は木類であって菜類ではないと陶弘景の説を否定して苦菜を菊の仲間とした。このため、以後、苦菜をキク科やナス科の植物と考えて茶とは別物とする説が通説である。ただし、その一方で宋代の『紹興本草』などでは、苦菜(と考えられたキク科やナス科の植物)に『神農本草経』の記す薬効がないと指摘されているため、陶弘景の説を肯定する見解もある[35]。「荼」という字が苦菜ではなく現在の茶を指すと確認できる最初の例は、前漢の王褒が記した「僮約」という文章である。ここでは、使用人(僮)がしなければならない仕事を列挙した中に「荼を烹(に)る」、「武陽で荼を買う」という項があるが、王褒の住む益州(現在の四川省広漢市)から100キロほど離れた武陽(現在の彭山県、眉山茶の産地)まで買いに行く必要があるのは苦菜ではなく茶であると考えられる[36]。この「僮約」には神爵3年(前59年)という日付が付されており、紀元前1世紀には既に喫茶の風習があったことが分かる[37]。後漢期には茶のことを記した明確な文献はないが、晋代の張載が「芳荼は六清に冠たり/溢味は九区に播(つた)わる/人生苟(も)し安楽せんには/茲(こ)の土(くに)聊(いささ)か娯(たの)しむ可し」という、茶の讃歌といえる詩を残している[38]。南北朝時代には南朝で茶が飲まれていた顧炎武(清初)によれば、南朝の梁代(502-57年)に既に「荼」から独立した「茶」の文字が現れたというが、字形成立の年代特定は難しく、仮に「茶」の字が生まれたとしても余り頻用されなかったと考えられている[39]。はた坊