カテゴリ:サンダー・シング
「キリストはわが救い手、わが生命、天地にわたるいっさいである。 砂漠地帯を旅していたわたしは、疲れ、喉の渇きを覚えた。丘の上に上がり、水を探した。遠くに湖を見て、わたしが喜んだ。喉を潤したかったからである。わたしはそれに向かってながいこと歩いたが、いつまで経ってもたどり着くことができなかった。あとで、それが蜃気楼に過ぎないことを知った。それは光の反射が織り成す水の幻影に過ぎず、実在はしていなかった。同じように、わたしは生命の水を求めて世界を歩き回った。富や地位、名誉、贅沢、といったこの世の事はこの湖に似ている。私はその水を飲むことによって霊の渇きを癒そうとした。だが、渇きを癒す水の一滴さえ、見つけることはできなかった。私は渇きのために死ぬところだった。だが、霊眼が開かれた時、わたしは生ける水の河が、槍で刺されたキリストの脇腹から湧き出ているのを見た。わたしはそれを飲んで満たされ、もはや二度とかわくことがなかった。以来、わたしは常にあの生命の水を飲み、この世の砂漠の中でも決して渇くことがなくなった。わたしの心は賛美で満ちている。 わたしがどのような状況に置かれていようとも、主の臨在は、あらゆる理解を超越した平和を私に与えてくれる。迫害の最中にあっても、私は平和と歓喜、幸福を見る。わが救い主から得たものは誰にも奪う事はできない。家に入れば、主はそこにいる。獄舎に入っても、主はそこにいる。主によって、獄舎は天と化し、十字架は祝福の本源となった。主に従い十字架を負うことは、あまりに甘美で尊いがため、天に行って負う十字架がなければ、私は必要とあらば地獄にでも使節として送られる事を主にお願いする。少なくとも、十字架を負う機会がそこで見つかるように。主の臨在は、地獄さえも天に変えしめる。物言えぬ人が蜜の甘みをことばに表せないように、救われた罪人も、心に感じる主の臨在の甘美さを表現することはできない。この天的平和を十分に表現できるのは、天上の言語のみである。この世の危険、誘惑、罪、悲しみの真っ只中にいても、生命を与えてくださった主を通して私たちは救われる。 海は塩分に満ちているが、魚はその中でも元気に生きている。彼らは塩化しない。それは、生命を持っているからである。そのように、われわれが主から生命をうけていれば、この世にあってもこの世のものではない。この世ばかりか、天においてもわれわれは主の中に自分を見る。 今のわたしは、富も名誉も地位も望まない。いや、天国さえも望まない。ただ、自分の心を天にかえしめた主の実を必要とする。主の無限の御愛は、それ以外のすべてのものに向けられる愛を一掃した。クリスチャンと呼ばれる人々の中に、主の尊い、生命を与える臨在感を実感できない人々が多いのは、キリストが彼らの頭や聖書の中に生きているだけで心の中に生きていないからである。人は心を明け渡すときのみ主を見出す。心はキリストの王座である。王たるキリストの支配するハートこそ天の都である。」
「ロンドン、オックスフォード,パリを訪れた際にサンダーシングが伝えたメッセージ。」
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