再臨についてのサドゥーの講話
審判の日はなぜ引き延ばされているのか 「あるクリスチャンのことが思い出される。彼は、明けても暮れても、主の再臨が早まることばかりを祈っていた。ある日のこと、いつものテーマに黙想していた彼は、主が到来の日を先送りされていることに我慢できなくなり、その日のうちに再臨が起こるようにとの、何とも不遜な祈りを開始した。 このような狂気じみた興奮の中、座って祈り続けるうちに、幻のようなものが眼前を横切った。本当に太陽と月が陰り、星々が天から落ち、地上が恐るべき大地震に呑まれて揺れ動き、栄光の主御自身が雲に乗って先頭に立ち、天軍を引き連れて地上に来臨する光景を見た。 この審判の日のしるしを見て、彼は恐怖に慄き、それまでの短気に代わり、震えと恐怖が全身を支配した。待ち構えている危険と、予想される厳粛な審判の光景を垣間見たときに、自分の過去の行いすべてが、心にくっきりと映し出されるのを見た。 あたかも、過去のすべてが鏡の中にあり、自分の行いのすべてがそこに映し出されているかのようである。それが彼の恐怖心をいっそう煽り、絶望感と無力感を強くした。彼は、主の到来を熱心に祈ってはきたが、自分自身を振り返り、罪深いものが大部分を占めるその内的生活を精査することが、ほとんどなかったからである。 おびえきった彼は、このような戦慄に満ちた光景から目を背けようと、後ろを振り向いた。だが、振り向くや否や、哀れなその目は、見たばかりの光景より何百倍も恐ろしい、もう一つの光景に開かれた。 彼のすぐ後ろで、途方もなく広がる、岸のない火の池が燃え盛っていた。火は天高く燃え上がり、今まで見たこともないほどの、不気味な形と大きさの、這う虫と爬虫類が中にうごめいていた。 この光景を見ているうちに、不法の子らの領分、神とその聖なる法律を無視した者たちの行く先である、と聖書に書かれている火の池とは、このことなのだと悟った。それを見たときに、彼の感覚は恐怖心で麻痺し、自分の立っている場所さえも感じ取れなくなってきた。 その直後に、彼は眠りから目を覚ました。そして、自分の見たものが夢であったことを知り、心から安堵した。夢に見たこの恐るべき光景は、彼の偏執狂を直したばかりか、不注意で、不遜だったそれまでの生き方すべてを変化させた。 夢から覚めるや否や、彼は、へりくだって床にひざまずき、犯してきた罪をすべて告白し、自分の人生を主に捧げ直した。彼は、到来を引き延ばされている神の隠れた目的を、人生で始めて理解したのである」 (出典:"Soul Stirring Message",1920) 主の再臨についての質疑応答 質問: 「第一テサロニケ四16-17に書かれている、空中に取り上げられて主と交わる人は、どのような人々なのでしょうか。それは、罪の許しを受けた人々でしょうか。それとも、黙示録の七つの教会に宛てられた書簡で言われている「勝利を得た人々」なのでしょうか。キリストが十字架の死をもってお与えになった栄光の贖いを受けた人々、罪の許しだけではなく、罪から救済された人々でしょうか。霊肉ともに完全な聖化を受け、不朽の体になった人々でしょうか」 サンダー・シング: 「磁石を針に近づけると、見えざる力によって直ちに針を吸い寄せる。それは、磁石につながる性質が針にあるからである。そのように、キリストが再臨されるときには、聖なる性質、つまり内にキリストの生命を得ている人々をみな引き寄せる。彼らは、抗しがたい牽引力によって空中に上げられて主と対面する。彼らを地上に拘束できるものは、何もない。 "見よ、主は雲に乗ってこられる。すべての者がそれを見、主を突き刺した者たちもそれを見る"と書かれてはいないであろうか。 キリストの再臨に触れると、愚かしいことだという人々がいる。このような人々は、やがて来る審判のことを何一つ真剣に考えず、箱舟の建造に取り組んでいた何百人の労働者と何ら変わるところはない。 キリストが御出現になるときには、ノアの日と同じであろう。ノアの箱舟である教会に携わりながら、主の再臨について話すのを好まず、すでにキリストは霊的に再臨しているのだと議論している聖職者たちの何と多いことか。しかし、聖書は、"あなた方の中から天に取り上げられたイエスは、天に上げられるのをあなた方が見たのと同じように、再び来られる"と証言している。 その到来は迫っている。私たちは時の兆しがすでに来ていることを見分けることができる。人類が大いなる苦しみを通るのはこれからである。第一次世界大戦は、軽い天罰でしかなかった。さらに大きな苦しみが全世界、特にヨーロッパを支配するであろう。」 これらの言葉は一九二二年にスイスにおいてサドゥーが話されたものである。(出典:"Sundar Singh In Switzerland",Alys Goodwin,1922)