カテゴリ:サンダー・シング
わたしはマホメットの墓を見た。それはダイヤモンドとその他の高価なもので飾られた実に見事なものだった。ここにマホメットの骨が収められている。と人々は言った。またナポレオンの墓を見た時には、ナポレオンの遺骨がここに収まっている、といわれた。だが、キリストの墓を見たとき、それは開かれていた。骨はそこにはなかった。」 キリストとは、生けるキリストである。墓は2000年前に開かれたままである。わたしの心もまた、キリストに開かれている。主はわたしの中に生きている。主は生けるキリストである。キリスト者の人生の中に生きているからだ。キリストを語る者ではなく、キリストを所有する者こそ、真のキリスト者である。 神の中に失われることに救いがある、という人々がいる。われわれキリスト者はキリストの中に生きることがすでに天であると語る。われわれは主の中に生き、主もわれわれの中に生きるのである。このように説明しよう。 鉄の塊が火の中に投げ込まれれば、それは焼けて真っ赤になる。鉄は火の中にあり、火は鉄の中にある。だが、鉄は火なのではなく、火も鉄ではない。同じように、われわれもキリストの中に生き、キリストもわれわれの中に生きているとはいえ、われわれが神になるのではない。 われわれが呼吸する空気を考えてみよ。空気はわれわれの生命であるとはいえ、人間が空気なのではない。呼吸によって空気を取り入れるように、人は祈りによって神の祝されし聖霊を吸入する。われわれは、神に近づくだけでなく、一つに結ばれる。これは単なる結合ではなく、生命である。この生命をいただくときに、われわれは驚くべく神の愛を見る。 惑星は自らは光を放たない。太陽から光を借りて輝く。キリスト者も同様である。自分自身では光を持っていないが、義の太陽から光を借りて光り輝くようになる。 教会がキリストの体と呼ばれているのは、キリストとクリスチャンが主人と使用人の関係にあるからではない。それ以上の関係である。クリスチャンはキリストの各部である。かれらはキリストの仲間であるばかりか、キリストご自身を形作っているのだ。主は彼らを通して呼吸されている。 キリストは常に教会に現存するが、目には見えない。人が心の内に崇敬の念を感じ取れば、それは主の臨在をかすかに認めていることである。もっとも、主は自由意志に干渉してまで、むりにその臨在を感じさせようとはなさらない。われわれがその能力に応じて感得することを許されている。実際、主はどんな場合にも強制はなさらず、ただ、引き寄せるだけである。 目薬は目の前に置かれているときのみ目に見える。それが目に入り、目に清涼感を与え癒しているときには、見ることはできない。同じように、われわれの心を清め、その臨在感で歓びを与えてくださっている主を見ることはできない。 キリスト者は永遠の生命を持っている。それは彼の結ばれている神が永遠だからである。
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