カテゴリ:サンダー・シング
一、 人は好むと好まざるとにかかわらず、十字架を避けて通ることはできない。 キリストの十字架を負うことがなくても、この世の十字架を負わなくてはならないからである。初めは、キリストの十字架は重く、この世の十字架の方が軽いと思うかもしれないが、実際にはこの世の十字架は重く、その結果はローマ帝国の時代と同じく、奴隷死であることが、経験によってわかるのである。だが、キリストは十字架を栄光へとお変えになった。かつては汚名と死の象徴だった十字架が、今や勝利と生命の象徴となったのである。十字架を負う者は、十字架が自分達を背負って安全に目的地に連れて行ってくれることを、身をもって知る。だが、この世の十字架は、われわれを引きずり回した挙句に破滅に導く。自分がどちらの十字架を負っているか、考えてみる必要があるだろう。
二、 その人の働きと霊的状態に応じて、負う十字架もまちまちである。外側は釘だらけに見えても、十字架には甘美で平和な性質がある。それは、鋭い針をもつミツバチが甘い蜂蜜を造るのにも似ている。外側の難しさを恐れるあまり、十字架のもつ大きな霊的祝福を失ってはならない。
三、 何も知らない旅人は、山を登り下りするのに疲れて、神は間違って山を造ったに違いない。平地だけを造ってくれていればずっと楽なものを、と考える。それは、山が沢山のことに役立ち沢山の宝を秘めている事を知らないからである。例えば、山は水を循環させ続けているが、水の循環は体内での食物の循環と同じほど、世界にとっては大切である。同じように、人生の浮き沈み、十字架を負うことの辛苦がわたしたちの霊的生命を循環させ続け、それが淀むことを防いで、魂に限りない祝福を与えてくれるのである。
四、 大戦中のこと、ある肥沃な土地に塹壕(ざんごう)が掘られて、田畑が駄目にされたことがあった。ところがしばらくしてその塹壕に美しい花が咲き、実が成り始めた。それは、肥沃な土壌の下にもっと肥沃な土壌が隠れていたからである。そのように、わたしたちが十字架を負って苦しむ時に、霊魂に隠された富が表面化してくる。それが、自分を滅ぼすと見えても、絶望する必要はない。十字架は、霊魂に秘められている、これまで使われずにいた力を表に出すのである。
五、 スイスでの事だが、ある羊飼いが一頭の羊の足を折った。なぜそのようなことをするのかとの問いに、他の羊たちを迷わせて危険な断崖絶壁につれてゆく癖があるから、と羊飼いは答えた。羊は非常に怒って、この羊飼いがえさをやりにくる度に、彼の手を噛もうとした。だが、しばらくすると羊飼いと仲直りし、手をなめるようになった。同じように、悲しみや苦しみを通して神は不従順な者たちを安全な道に導きいれ、永生へと招いてくださる。
六、 気体は寒いときには光を幾らか吸収するが、暑いときには逆に放出する。それと同じく、私たちは霊的に冷えていると、義の太陽が照らしているにもかかわらず暗闇の中で、生きることになる。だが、十字架の摩擦によって聖霊の炎が点火され、熱が生じてくると、神のひかりによってまず自分が照らされ、次に人々にその光をもたらすようになる。
七、 ダイヤモンドは、研磨されなければ美しい輝きを放つ事はできない。カットされると太陽光線がカット面に反射して、えもいわれぬ光彩を放つようになる。そのように、じゅうじかによって磨き上げられる時に、わたしたちの霊魂は天の王国において宝石のように輝くようになる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年02月10日 23時01分15秒
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