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神の化肉について
数年前、ある凡庸な村人が、ミルクの入った赤い瓶を見せられた。瓶に何が入っているか、と聞かれた彼は、ウィスキーかブランデー、それともワインかと答えた。彼は、中のものがグラスに注がれるのをその目で確認するまでは、そこにミルクが入っていることを信じることができなかった。瓶の赤い色が邪魔をして、ミルクの白さが見えなかったからである。キリストの人性についても同じことが言える。主は人となられ、その神性は人性の中に隠されていた。人々は、主が疲れ、渇き、飢えるのを見て言った。「この男が神なら、なぜ疲れ、飢え、渇き、神に祈るのだろうか」。彼らは、主の人間的な側面しか見なかったため、主が真実神であられることを、信じることができなかったのである。 キリストの人性についても同じことが言える。主は人となられ、その神性は人性の中に隠されていた。人々は、主が疲れ、渇き、飢えるのを見て言った。「この男が神なら、なぜ疲れ、飢え、渇き、神に祈るのだろうか」。彼らは、主の人間的な側面しか見なかったため、主が真実神であられることを、信じることができなかったのである。 しかし、キリストに従い、キリストとともに生きる人は、キリストが人間以上の存在であり、神であることを知っている。 何年か前に、チベットでこのような話を耳にした。 ある王が国民にメッセージを伝えようと思った。王は、家臣にそれを任せたが、彼らは王の思うようには動かなかった。そこで、国民を愛していた王は、民の苦情を確かめようと、自ら使者を買って出た。しかし、王として国民の中に入ることはできなかった。彼らの苦しみや訴えを自由に話させたかったからである。そこで、王は服を脱ぎ、ボロをまとって出かけた。そして、民衆の中に入るとこう言った。「私は王に遣わされ、あなた方の苦しみをすべて知るために来ました」。 貧しい人々や苦しんでいる人々は、彼を信じ、あらゆる苦情を訴えたため、彼はこのような人々を助ける術を知った。しかし、高慢な人々は、このような貧民が王の使いであるはずはないと考え、ひどい仕打ちをして、追い出した。 後に、王は王の装いをして軍の先頭に立ち、民衆の前に現れた。人々は、見極めがつかず、それが同一人物であることがなかなか信じられなかった。「あの貧民が今度は王になった」と誰もが口をそろえた。王を侮辱した者たちは罰せられ、投獄されたが、王に親切にした人々は大事にされ、彼らの苦しみは解かれた。 人となられた生命の言葉にも、同じことが言えるのである。民は、主の栄光を見ることなく、主を十字架に付けた。だが、私たちが栄光のなかで来られる主を見、そのお方が、三三年間地上で貧しい者として生きた同じイエス・キリストであることを知る日が、やがて来る。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年11月19日 07時21分04秒
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