カテゴリ:T. オースチン-スパークス
十字架が完全な寸法であるべき場所にある時、他のすべてのものは秩序づけられ、意義と価値を与えられるでしょう。これはどんなに強調しても強調しきれないと思います。あまりにも多くの時、私たちは物事の外側、主の家の秩序、主の家の務め、主の家に関係する人々に関心を払っています。私たちはいつも外側から始めます。私たちは神の家の秩序を確立しようとしています。私たちは神の家の人々を正そうとしています。私たちが関心を持っているのは、第一に務め、第二に務めです。しかし、十字架が本当に完全な寸法であるべき場所にあるなら、こうしたことはみな実現するでしょう。十字架があるべき場所にあるなら、人々は正常でしょう。十字架があるべき場所にあるなら、務めは生き生きとしているでしょう。十字架があるべき場所にあるなら、神の家の秩序は正常でしょう。十字架はまさにこのように働きます。十字架が完全な寸法で中心にあるなら--それが大きな祭壇であることに注意して下さい--他のすべてのものもあるべき場所におさまり、生き生きとした関係を持つに至るでしょう。
ご存じのように、主はご自分を託すことを願っておられます。彼はご自分を彼の民に託すことを願っておられます。しかし、十字架がそこに働いていないなら、主は彼らにご自分を託すことができません。主は言われます、「私がそこに自分を託すのは安全ではありません。私は十字架につけられていない彼らの状態に巻き込まれるでしょう」。十字架は主のためにすべてを確保します。そして、十字架は教会のためにすべてを確保します。十字架が本当に私たち全員の中に働いているなら、私たちは互いに信頼しあうことができます。十字架につけられている男や女に自分を託すことは、とても安全です。 さて、十字架は教えられるべき一つの教理ではないことを強調して、私はこの朝を終えることにします。十字架は宣べ伝えられるべき一つの主題ではありません。もちろん、十字架は教えられ、宣べ伝えられるでしょう。しかし第一に、十字架は教えられるべき一つの主題ではありません。十字架は単なる一つの教理ではありません。十字架は力です。--十字架は経験です。十字架は私たちの生活の中の出来事です。十字架は転機です。十字架は革命です。十字架は地震です。イエスが十字架につけられた時、地震がありました。十字架が私たちの生活の中に到来するなら、地震があるでしょう。すべてのものが震われ、すべてのものが覆されるでしょう。十字架は地震です。それは何か途方もないものです。十字架は単なる一つの理論や、単なる一つの教理ではありません。十字架はすべてを支配します。
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