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イエスの喜びと満足のために☆

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2008年12月02日
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 十字架に行くまで、私たちはキリストの真のいのちを決して受けることができません。真の神聖ないのち、イエス・キリストのいのちは、それが男たちや女たちに人間のレベルを無限に超越した水準の生活をさせることによってのみ、知られうるのです。

 キリストはご自身について、「私は地上に火を投じるために来た」「それが成し遂げられるまで、私はどれほど苦しむことであろう」と言われました。この神聖な火、神聖ないのちが解放され、彼の「苦しみ」が終わるためには、バプテスマが必要でした。「ああ、それがすでに成し遂げられていたなら」と彼は呻かれました。このバプテスマは苦しみのバプテスマでした。そして彼は、十字架を通して、彼の全世界的使命がことごとく成就されることを求めました。その「火」すなわちいのちは、彼のからだの肢体たちによって、世界中に広がらなければなりませんでした。ですから、キリストのからだの肢体たちがキリストと一体化されることが必要不可欠でした。キリストとの一体化は、ただ十字架においてのみ得られます。以下の御言葉が最も深遠な意義を持つのは、この点においてです。

    「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中に生きておられるのです」ガラテヤ2:20
    「彼と共に葬られた」コロサイ2:12
    「私たちは彼の死の中へとバプテスマされた」ローマ6:3
    「もしわたしたちが、彼の死の様の中で彼と結ばれたなら、彼の復活の様の中にもあります」ローマ6:5
    「キリストが死者の中から復活させられたように、私たちもまた......」ローマ6:4
    もし私たちがキリストのあのいのちを現そうとするなら、もしあの生命力に満ちた破壊できないものが世の中で力強い証しを担おうとするなら、もしあの神聖な破壊できない勝利のいのち--神ご自身のあのいのち--が大能の力で証しを担い、彼のからだの肢体たちによって自らを世に感知させようとするなら、それはキリストのからだの肢体たちが死と復活の中でキリストと一つになることによってのみ可能です。

 この一つを知るまで、私たちのクリスチャン生活はほとんど有効ではありません。自分がキリストと共に古い自己に対して死んだこと、そして野心、欲望、計画、観念、規範いっさいを伴う古い世に対して死んだことを、最初に一度限り十分に認めることによって、私たちは自分の席に着かなければなりません。そして次に、復活のいのちが私たちの間でますます現されるために、死が私たちの中に日毎に働くことを許さなければなりません。神のいのちは旧創造の中に来ることはできません。それは新創造のいのちです。

 これは罪人としての私たちの場合にあてはまるだけでなく、クリスチャン生活の他のすべての方面で働く法則でもあります。霊的教育における真理の知識の問題を例に取りましょう。私たちは御霊の学校に来て教わります。この学校は、一定の量の知識を頭の中に収めるために通う、この世の教育機関とは異なります。この世の教育では、私たちは膨大な量の理論的知識を詰め込まれます。しかし聖霊の方法は、事物をまさに私たちの存在中に造り込んで、それを私たちとならせ、私たちをそれとならせることです。

 霊的教育では、次のようなことが起こります。ある日、霊の中で、何かを聞いたり、何かを読んだり、あるいは内なる御霊の声によって、あなたは何か素晴らしい真理を見ます。その真理は、新しい啓示の力すべてを伴って、突然あなたに明らかになります。以前は理論として知っていたことが、素晴らしい神聖な啓示として、今あなたに明らかになります。あなたはそれを握りしめ、おそらく祈りに出かけて、それを主に感謝するでしょう。あなたは、自分の生涯で無限の価値を持つことになる偉大な宝を手に入れた、と感じるでしょう。あなたはその宝を失いたくありません。その宝はあなたに大きな喜びを与えます。

 しかし、しばらくすると、それはなくなってしまいます!それは消え失せて、まったくあなたから去ってしまったようです。そのいっさいの力と喜びは去ってしまったようです。それは色あせた幻になってしまいました。

 あなたの知らないうちに、あなたの生活は奇妙な線を辿り始めます。また、厳しい試みの性質を帯びた事柄があなたに臨み、非常に困難な状況が生じます。あなたは状況に追い立てられて、「自分は絶望と死に追いやられつつある」と感じます。

 この時、怪訝に思うあなたの心を、かつて確かに失ったあの「真理」が満たします。

 あなたが困難の中にある時、その真理はあなたを捕らえます。そして、あなたは必死にその真理に助けを求めます。その結果、その真理はよみがえり、あなたを助け、勝利に導いて、自らの生命力を示します。いったい何が起きたのでしょう?

 あなたは真理の何か重要な面に関する啓示を受けました。それは結構なことです!しかし、その真理はあなたとなるために、あなたの中に造り込まれなければなりませんでした。以前、その真理は知的に理解されただけでした。しかし、その真理があなたのいのちそのものとなるために、あなたはこの真理だけがあなたを救いうる死の場所に導かれなければならなかったのです。

 こうして、その真理はあなたの霊のいのちの一部になりました。この後、あなたは決してそれを失いません。それはあなたが知っている真理であり、あなたが実証した真理です。あなたがそれを他の人々に話す時はいつでも、それはただちに功を奏します。それは生きているものであり、あなたの経験の中で死からよみがえったものです。ただこれだけが効果的な証しの条件です。あなたは麦粒の可能性を信じましたが、その中にいのちを見ることができませんでした。その麦粒は墓に下り、次に神意により周囲の力や要素がその上に働き始めます。麦粒は生き返らされ、芽を出します。これ以降、その上向きの上昇を阻めるものは何もありません。

 この法則を主への奉仕の問題にも適用しましょう。私たちは罪人としてだけでなく、働き人としても死ななければなりません。死が私たちの奉仕をつかむ時、それは恐ろしい経験です。私たちが働き人・説教者として死に下る時、また、境遇、逆境、不毛さ、霊的無力さにより、両手を投げ出して、「私はもうだめだ、私は終わりだ」と絶望して叫ぶことを余儀なくされる時、それは恐ろしい経験です。

 ここで、私たち自身と私たちの奉仕が試されます。

 それはどれくらい人気の問題だったのでしょうか?私たちは自分の名を上げるために働いていたのでしょうか?それは名声の問題だったのでしょうか?人々が私たちの働きを誉めるかどうかが大切なのであって、私たちは得意満面になっていたのでしょうか?それとも、人々から酷評され、批判され、曲解され、悪口を言われたのを気に病んで、私たちは家に帰り、惨めな夜を過ごしたのでしょうか?

 どれくらい働きの中に自己があったのでしょうか?

 試みが来る前、私たちはもちろん、「私にはそのような個人的野心はありません。私が求めているのは自分の益ではありません」と言ったことでしょう。しかし、私たちが死に下り、奉仕の扉が私たちの上で閉ざされつつあるように思われる時、私たちは自分の動機、感情に関してあらわにされますし、私たちが主の御名よりも自分の名声に注意を払っていたかどうかに関してあらわにされます。

 神が私たちを用いることができるようになる前に、私たちはこうしたいっさいの自己のいのちから解放されなければなりません。神が満足しておられ、私たちが神の御旨の道にある限り、人々が何を考え、何を言い、何をしようとも、少しも気にならないという所にまで、私たちは達しなければなりません。

 これが平安の道であり、勝利の道です。しかし私たちは、「私」が屠られなければならない死の領域に下らなければなりません。キリストが復活の力の中で啓示されうるのは、「私」が十字架につけられるこの度合いによります。

 奉仕の成功の秘訣について尋ねた人に向かって、ジョージ・ミュラーは答えました、「かつて、私が死んだ日、まったく死んだ日がありました」。彼は話しながら低く低くかがんでゆき、ついに床に触れそうになりました。「ジョージ・ミュラーに対して死に、自分の意見、好み、嗜好、意志に対して死にました。この世に対して死に、その賞賛と非難に対して死にました。私の兄弟たちや友人たちの賞賛と叱責に対してさえも死にました。そしてそれ以来、私は神に喜んでいただくよう心がけることだけを学んできたのです」

 この法則は、神ご自身によって始められたことが確かである、王国のための偉大な事業の中に働いているだけでなく、神が間違いなく私たちを召して下さった細かな奉仕の中にも働いています。私たちはこれまでこのことを見ていませんでした。

 その働きは、その歴史のどこかの時点で死に下ります。その効力はまったく失われ、後には何も残らないようかもしれません。その時、時計の振り子はこちら側に振れます。そして、この埋葬された働きは、神の復活のいのちにより、墓の最下層から復活します。

 神の多くの僕たちは、自分が確かに召された働きがこのように終わるのを見てきました。何らかの神秘的な理由により、働きが永続的な生命力と勝利をもって存続できるようになる前に、神はその働きを死に下せるようです。おそらく、神のいのちが入ってくることができるために、人の命は出て行かなければならないのでしょう

 

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これを読んで、本当に驚きました。十字架の死を経ることの絵が、御霊による霊的教育として書かれてあること、本当にびっくりです。

 心から、いえ、霊の内に呼応する思い、すごいですね。

 一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。
しかし、もし死ぬなら、多くの実を結びます。
(ヨハネによる福音書12章24節)

 






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最終更新日  2008年12月02日 22時53分43秒
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