カテゴリ:T. オースチン-スパークス
II. 明け渡しによる自由「主よ、私をとりこにして下さい。そうすれば私は自由になるでしょう」 イザヤ書53章は、この真理の素晴らしい解き明かしです。 ここでは、エホバの苦難の僕が描かれています。彼は自分の意志で、多くの面にわたってとりこにされました。彼はご自身を空しくし、十字架の死に至るまで従われました。彼は自分の神聖な権利を放棄し、無名になり、悪の全軍勢によって蹂躙されることをよしとされました。それは、人性の面で彼らより低くなることによって、彼らを真っ二つに引き裂き、すべての主権や力を遙かに超えて、彼らに対する圧倒的勝利の中で復活するためでした。 十字架は人性の面における捕囚の絵です。「彼は他人を救ったが、自分を救うことができない」。「できない」はアダムの種族を支配している言葉です。しかし、十字架は新しい種族の代表者であるキリストがご自身のために完全な解放を達成する手段であり方法です。 十字架がその働きをなす時、そこにはいっさいの人間的限界からの解放があります。キリストは、情勢全体を支配するような仕方で、墓を打ち破られます。 彼の死の中で彼と一つにされた人々は、彼によって超自然的レベルのいのちによみがえらされます。そして彼らを通して、彼は以前不可能だったことを成し遂げられます。 カルバリ以降、キリストが代々にわたって成し遂げてきてこられたことを、人は説明することができません。人性の面は、まったく無力でした。これは、卓越したことを成し遂げるために用いられた多くの人々の知性、社会的身分、肉体、健康についてもいえます。 彼らは、「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、人の心に思い浮かんだことがないもの」、しかし神が彼の霊によって彼らに啓示されたものを、世に伝える伝達者でした。成し遂げられた働き、網羅された領域、彼らの奉仕の不滅性は、人の能力を完全に超えていました。それだけではありません。すでに指摘したように、悪魔の妨害・攻撃と敗北も、その働きが超自然的な無限の性質を帯びている事実を証明したにすぎなかったのです。
III. 損失による拡大ふたたびイザヤ書を見ましょう。ここで私たちは、神の贖う僕が苦難を受けるのを見ます。光景はすべて、苦難のそれです。彼は孤独であり、さげすまれ、捨てられます。恐ろしい孤独です。彼の十字架は、彼にすべてを犠牲にさせました。彼の兄弟たちは彼を信じず、最も身近な弟子たちですら彼を理解しません。しかし、この素晴らしい章はどのように終わったでしょうか?「彼は自分の子孫を見、その日を長くする。彼は自分の魂の苦しみを見て、満足する」 十字架の損失とそれによる「子孫」の産出の点から、私たちはさらに究極的立証へと進みます。「私はほふられたような小羊を御座の中央に見た」。小羊の周りには、「すべての国、部族、民族、言語の中から贖われた、誰も数えることのできない大群衆」がいました。ここに収穫、すなわち彼の苦しみの結果である無数の群衆がいます。 この実際的適用は次の通りです。神から多く要求されているように思うこと、また、何かとても大切なものを彼に渡さなければならない時、この十字架をたいへんな打撃、たいへんな要求のように思い、時には苦痛を与えるほどの要求を強いるものであるように思うことが、頻繁にあるかもしれません。私たちは与えてばかりいるようであり、犠牲の法則が相当重く働いているようです。しかし、これこそ無限に超越した収穫を得ることのできる唯一の道です。 悪魔は世の王国とその栄華を主の前に広げて、「もしあなたが十字架から離れてさえいるなら(これが悪魔の誘惑の狡猾な意図でした)、このすべてのものをあなたに差し上げましょう」と言いました。サタンは、十字架が持つことになる意義、すなわち彼が世の王国を失うこと、そしてキリストが十字架によってそれを得ることを、知っていました。ですから悪魔の言葉は事実上、「あの十字架から離れていなさい。そうすれば、私があなたにすべて差し上げましょう」ということを意味しました。 しかし主は事実上、「私は十字架に行きます。私はしばらくの間あなたの申し出を退けます」と言われました。そして彼は、この世を拒み、自分自身を否んで、十字架に至る道を歩まれました。そしてその所で、彼の御言葉によると「この世の君は追い出され」、彼は悪魔が与え得た以上のものを獲得されました。結局彼は、世の王国を手放すことによって、それを獲得されます。 あなたは得るために失う用意があるでしょうか?永遠のもののために一時的なものを、永続するもののために移ろいゆくものを、天的なもののために地的なものを、究極的栄光のために現在の栄光を、失う用意はあるでしょうか?これがすべてを持つ道です。今、キリストは御父の手から永遠の富を受けておられます。そして、十字架による私たちの彼との結合により、今の生活も無限に豊かになり、言い尽くせないほど満ち満ちたものになります。 自分が最も失いたくないものを最終的に喜んで放棄したところ、それが大いに豊かになって戻ってきたこと、あるいはそれが以前知っていたいかなるものをも超越した豊かさへの道であったことを、私たちの中の幾人かは経験しました。 私たちが自分の宝を塵の中に置く時、その見返りは途方もありません。私たちは「小川の石ころの代わりにオフィルの金」を得、全能者が私たちの宝になります。
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最終更新日
2008年12月03日 20時56分34秒
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