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テーマ:暮らしを楽しむ(388177)
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自分で自分のことが、冷静に判断できないでしょう。
よほど、反省の方法を知っていて、毎日、1日を夜、 1)自分の発した言葉について 2)人の話してた事について、反応について 3)心の中は、その時どう思ったか 4)心の中では、どう相手を見ていたか などを振替って、反省できればいいのですが・・・ 時間が無くてできないというのもあるし・・・ そういうことで 原因と結果について 起こるべくして起こる反応が見えてきたりするのですが・・・ 現実には なかなか できないでしょう 私も、できていない。 そこで、「神社参り」を思いついたのです。 「祈る」というのは、他力本願な事ではないのです。 自分の意思の決意表明であって、意思がないとできません。 「こうしたい」という明確な意思です。 そして、その結果は、どこに、どういう形で現れるかも分りません。 いつ結果が出るとも限りません。 だから、日頃のどんな些細な出来事にも敏感になります。 (私の場合、オバケの出具合まで、考えますが) そして、その結果の出方がどうあれ、それに気づく事が出来るようになると 「感謝」の気持ちが湧いてきます。 それは、神様へであればいいですが そうでなくても、その対象者に湧いてくるでしょう。 そうしていると、ほんの感情的に起こした事か そうでないかの違いは明確になってきて その感情的というのも、自分の感情ではなく 人に、テレビに影響されたものだと感じることもあって ほんとうの自分というものが、見えてくるというか 自分らしく、安定して生きていけるでしょう。 自分を知るといのは、心の平静あってこそ その平静、心の安定こそ幸せなことだと気づくでしょう。 そして、世間に対して謙虚に生きられる状態になっていくでしょう。 追伸) と、わかっているができないし、そうでない人が多い中で 悟りきったような状態では、話もかみ合わないし、生きていけないので、 その「自分でない感情の飛び交う中」でも それをわかっていながら、飛び込んで でも その中にある 暖かさを 見つけては それを楽しんでいるというところでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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