「ふれあい」か「なれあい」か
固定的な人間関係の問題として、「ふれあい」と「なれあい」のはき違えがあるそうです。「ふれあい」とは、自分は独自の考えを持つ一人の人間であるという自覚を持つ者同士が本音を出し合う中で分かり合って、一体感をもてるところに生まれる感情。協調の基盤となる。お互いの考えを出し合い、譲り合えるところは譲り合って折衷し、一緒に活動するところに意味がある。協調的な活動を通して人は成長する。「なれあい」とは、一人の人間であるという自覚を持てない者同士が、孤独をまぎらすために、一体感を持つことによって満足している感情。同調の基盤となる。自分の考えを押し殺して相手に合わせる。最初は大きなトラブルもなく、関係が良好に見えるが、自分の考えを出し合って交流していないので、関係は表面的であり、深まらない。ということを、この前の人権教育の研究会で勉強してきました。それとはちょっとずれるかもしれないですが、その話を聞きながら、以下のようなことを思っていました。子どもたちにグループ活動をさせるとき、それぞれのグループごとに、さまざまな活動の形があらわれます。A 一人ひとりがやりたいことを主張し、なかなか方向性が定まらないグループ。B リーダー的な一人を中心にし、次にやることをその子に聞きながら進めるグループ。Bはけっこうスムースに事が運んでトラブルもないので、「協力的でいいグループだ」になるのですが、受け身だったり、人に言われないと次のことができなかったりして一人はよくても、そのほかの子の「個の力」が育っていない場合があるように思います。Aは言い合ってトラブルがおきがちで、時間もかかるので「協調性がないなあ」と思われるようですが意外に方向性が定まってくると個々がそれぞれの力を発揮してまとまる、ということがあるようにも思います。集団活動では、一人の考えがすんなりと通るよりも、いろいろな考えを出してその中ですりあわせていく、という経験ができるといいと思います。かえってトラブルのある方が、成長できるように思います。それには、先生はどこまで口を出してどこまで見守るか、そのさじ加減が大事だなあ、と思った先生に↓クリックをよろしくお願いします。