●光市母子殺害事件・本村洋氏から学ぶ「ぶれない」心の作り方
ここ最近【光市母子殺害事件】と被害者遺族の本村氏の事を考えていた。解決する日々の間「あの事件はどうなったんだろう」と頭をよぎる方もいたと思う。そしてマスコミに表れるたびに確実に成長していく本村氏を、この事件の終結を13年間緊張しながら見つめていた人は日本中に沢山いると思う。事件のあらましは報道の通り、死刑が求刑された。最高裁判決全文そして本村氏は加害者と司法と社会正義に対して堂々と渡り合える人へと驚くべき成長をされた。「時間が最良の相談相手でした…年を重ね色んな事が冷静に見れるようになってきました」「死刑判決に勝者はなく、犯罪が起こった時点で皆、敗者です…」この13年戦ったからこそ吐き出せる言葉であった。少なくとも私は本村氏に何かを期待し続けてきた。悲劇の渦中にありながらも、惑う事ない本村洋氏の強さとぶれない一貫した生き方にだ。 ------------------------------------------------------------悲嘆感情・グリーフケアの研究の為に「遺族会」的なものに参加させてもらった事がある。様々な遺族の方が、ぬぐいきれない悲しみ苦しみを告白し合い感情を分かち合うという会だ。参加したその会では、いわば【死因・年代別カテゴリー】などに分かれている。それは初対面でも、似たような体験をした者同士「悲しみを共有できる人がいる」事を知り孤独からの回避につながる為にだ。だが犯罪被害者の場合は圧倒的に少数派。犯罪被害者の場合は難しくて対応出来ないそうだ。遺族感情によくある感情の一つに根拠がないとしても「自責の念」を抱くという問題がある。犯罪被害の場合、自分を責めると同時に現実に許すまじ相手が発してしまう。同じ遺族という立場でも、支え切れない、感情的にあいまみえないものを抱えている。 「怒り」と言う感情は「悲しみの隠れ蓑」である。その怒りを永遠に払しょくできなければ、その奥にある他の気持ちを消化できない。私が介入した事例では遺族の皆さんは頭が真っ白の状態になっていた。または犯罪の疑いがあれど、追求しない遺族もいた。自殺者が出た家族でも、その原因が家族関係にある事を顧みようとしないケースも…。猛烈な悲しみと怒りだとしても1歩踏み出し13年歩き続けたのは偉業だと思えてならない。------------------------------------------------------------本村氏は「なぜこの事件が世間の皆さんに関心を持って頂いたのか今でもわからない」と言っていた。世間がこの事件から目が離せなかったのはその凄惨な事件内容による怒りや同情・断罪の気持ちだけではないと思う。一つには「自分にも当てはまるかもしれない問題」だったと言う事。何が「最良の判決」なのか判断付けられない本件は全国民にも関わる命と安全への法律改定要求を含んでいた。そしてもう1つ「ゴールの見えない戦い」をする本村氏から目を離せなくなったのだと思う。比喩すると失礼にあたるかもしれないが・・・某有名映画、○○○ポッターなどメガヒットする作品は大抵自分と重なる部分がある主人公が冒険し試練にぶつかりその度成長する。“ヒーローズジャーニー”(英雄の旅)というストーリー法則に上手く則っていたからである。「自分は無力です」という本村氏は、どこにでもいる日本人であり特別な人ではなかった。だが偶然にも人の心をつかんで離さない(英雄の旅)を歩むことになったのである。人はやはり共感できるものに同調する事で、自分を意識する生き物だ。誰もができる事ではない戦いに挑む「自分と変わらない人に」アイデンティティを重ね思いを託すのは当然だろう。判決の日のインタビューとこの13年を通して私の感じた所は信念を持つこと指針を信じること社会と他者の為にもなるものであること冷静に見ること自分のしていることを信じることまるでビジネスでの成功法則にも通ずる気がする。人間は経験を重ねて、自分を作り上げていく。情に流されず、情熱は消さない。世の中はグレーな世界で成り立っているかもしれない。でも迷いそうな時、本村氏を奮い立たせて白黒つけたのは「天網恢恢疎にして戻らず」の胸に刻んだ言葉と仲間と言う存在なのだろう。------------------------------------------------------------遺族会には、長い人はもう15年も来ているという。主催者側曰く秘密裏の認識は、やはりここに来る人は「依存体質」なのだそうだ。平安な心の幸せを取りもどしたくて来ているハズではないのか?でもここは居心地が良く、いつまでも「悲しみの感情」を吐露できる。何年でも全てを受け止めてくれる「優しい場所」。急がなくていいし、必要な時期・必要な人には入るべき場所だと思う。だが少し残念に思うのは、優しさに甘んじるだけの人は成長しにくい下を向き続ける人は辛い現状を維持し続けてしまう。亡くした者がいる現実を受け止めないからである。現実を受け止める事は、変化しなければいけないという事。必要なのは 「じゃあどうすれば・・」という行動に通ずる問いかけ なのだ。そして新たな生活をどのように生きるか模索することがその人を成長させ、心の平和を取りもどす道となる。本村氏が踏み出した「小さな1歩」でいばらの道に踏み出した。今、厳粛に受け止めたいわゆる「勝利」とも言える判決と氏自身の心の旅で多くのモノを得た。「なにもしなければ始まりませんし、小さな一歩でも何か始めることで社会は変わるという事が実感できた」人は一生懸命な人を応援したくなるものだ。本村氏は司法と戦った。犯罪被害者でない多くの遺族は自分と戦う事になる。だが歩みだせば必ず賛同者は現れる。生きるヒントをくれる機会やチャンスにも恵まれる逃げなければ必ず勝てると言う事。その時、その人は語るべき言葉を持てる人になる。うつむくのを止めたいと思える時がきたなら死したその人に誇れる心の平安を取りもどして欲しい、という事だ。------------------------------------------------------------本村氏は青年期に持病で生死をさまよっている。その病院内での友人の死にも直面している。そして妻と娘の惨殺という悲劇にもあって若くから【死】に近い生活をしてきた。その本村氏が死刑求刑を望んだのは命がそれだけ重く尊いものだと知っていてその価値を知るには命を持ってしか、贖罪することができないと考えたからだ。誰よりも確たる「死生観」を培っていった。だからこそ、愛が貴重であるとも知っていた。本村氏のぶれない心の根底には、死生観から得た「家族への愛」と「普通であることの幸福」という誰でも持ち合わせる事の出来るものだ。そして今後は「まずは自分自身が幸せになること家族が幸せになること社会に迷惑をかけず、被害者がいつまでも下を向いて事件の事だけ引きずって生きるのではなくて事件の事を抱えながらも前を向いて、笑って、自分の生活を人生をしっかりと歩んでいく事が大事」と完全には癒える事のない悲しみを抱える人が語る。犯罪被害者として普通の人に望むことは「何事もなかったかのように普通に接してくれる事」「普通」とは「幸福」と言う事なのである。------------------------------------------------------------全人類が必ず誰かの死に直面する。そしていつか自分も必ず死ぬ。近年はこの死生観に関しての書物が多く出版されるようになった。ベストセラー「死ぬときに後悔すること25」エンディングノート系の終活関係の書物も多数ある。 悔いを残さず充実し、誰にも迷惑をかけず思い通りの終わりを迎える。それは素晴しい事だと思う。だが訪れるであろうその時に備え、最も必要なのは己の真の死生観を理解しておくという事だと思う。こんな例がある。生前「俺が倒れ、もう快復しないなら延命治療はしないで欲しい」と再三言っていた男性がいた。いざ本当にそうなった時、妻は希望通り静かに最期を迎えさせるつもりでいたが寝たきりで、もはや土壇場になり「まだ死にたくない」と望んだそうだ。幸いにも経済的にそれが許され3年間病室で寝たきりでありながらとしても、満喫した人生を全うしたそうだ。自分の本当の心というのは、それに直面した時にこそ表出する事もあるのだ。自分が表面上正しいと思っていた事と、本心が望んでいる事とは真逆な場合もあるのだ。重要なのは、自分の真実と向き合わなければ本当の幸福は得られないという事である。マグニチュード7級の首都直下地震が今後4年以内に約70%の確率で発生するという予測もあった。この予測は都市伝説かノストラダムス級の予言レベルである事を願うものだが備えるべきは「いつかは必ず死を迎える」という意識と「だから今、自分はこのように生きる」という幸福感の主軸だと思う。 【今日の教訓】 「正気のうちに死生観を見つめておく」