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カテゴリ:大好きな人たち
おはようございます
満開になった桜が、昨日はもうところどころに緑の葉がのぞき始めていました。 まるで天から舞い降りてきたピンクの羽衣が、 あっという間に街を春色に染め、 またふわりふわりと天へ戻っていくようです。 そんな桜を眺めながら、 花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき というフレーズがふと頭をよぎります。 読み始めた日本文学全集で、私がまず夢中になったのは、このことばを世に遺した 林芙美子さんでした。 もともと乱読、自分の心の動きにまかせ、さらさらと本を読んでしまう(精読できない)私。 これまであまり女流作家の作品を読んだ記憶がありませんが、記憶に残っている好きな作家といえば、 山崎豊子『沈まぬ太陽』 あまんきみこ『きつねのおきゃくさま』(絵本) 茨城のリ子『自分の感受性くらい』(詩) どちらかというと、ピリッとした印象の作品・作家に、とても惹かれる傾向があるようですが、今回初めて作品を読んだ林芙美子さんは、それとはまたちょっと違う、でもものすごく強烈なインパクトを与えてくれました。 林芙美子さんについては 森光子さんが1900回以上も主役を演じられている舞台『放浪記』の原作者 という認識と、上に書いた「花の命は…」が、私の知っているすべてでした。 林芙美子さんは、行商を営む両親の間に生まれ、広島県尾道市で学生時代を過ごし、 その後東京へ出て、さまざまな仕事をしながら文学の道を志し続けた女性。 当時は珍しくなかったのかもしれませんが、 貧乏 な庶民としての暮らしが長く続いていたようです。 貧乏人の苦労話 が好きな私ですから、彼女の作品がそういうものだとわかるや、一冊の中に入っていた作品をすべて読みました。 『放浪記』 『風琴と魚の町』 『清貧の書』 『牡蠣』 『泣虫小僧』 『晩菊』 『浮雲』 以下は、私の勝手な感想です。 本を確かめながら、ではなく、頭と心に残った印象で書きますので、文の詳細や解釈については誤りもあるかもしれませんが、どうぞご容赦ください。 私が思うこの人の最大の魅力は、 野に咲く花のような逞しさ です。 踏まれても、雨風に吹きつけられても、しゃんとそこに咲いているタンポポのような。 そして、生きているうちに育ったものなのか、天性のものなのか、 詩人としてのセンス が、そんな彼女の魅力をうまく作品の中で切り出してくれていて、そこだけが前後の文章とはまるで違う光を放っているようです。 『放浪記』では、主人公の女性の貧しさの中での苦労が、まるで自叙伝のように綴られています。 でも、どんなに貧しくても、今日食べるものがないほどの生活の中にいても、その女性は、意外なところで愉しみを見つけるのです。 工場で朝から晩までくたくたになるまで働き、 (もう一生こんな貧しい生活から抜け出せないのでは?) と途方に暮れながらも、狭く汚い畳の部屋で、ふと開けた障子のすき間から見える星空の美しさにうっとり見惚れてみたり、 お金持ちの家でお手伝いさんのような仕事をしているときには、 その家の本をこっそり読めることに無上の悦びを見出したり、 『泣虫小僧』 では、母親に叱られている少年が、じっと首をうなだれつつ、 視線の先に見える蟻の大群に思わず、 (お引越しかな?) と考えてみたり… 私には彼女のようにうまく切り取って表現する力もないし、私の経験など彼女の通ってきた苦労に比べれば、まったく比較にならないくらいの出来事ばかりですが、そういう感覚が、何となく共鳴できました。 私が小1のときに弟が生まれ、小2で妹が生まれました。 母はそれから病気になり、寝たり起きたりの生活で、私や姉、上の妹は、家事を分担するようになったのですが、私の一番嫌いな作業は、 布おむつの洗濯 でした。 大きめのバケツに洗剤の入った水があり、そこに汚れた布おむつをためていきます。 まだ水洗トイレでなかった田舎の家。 夏になると、ハエもたくさん飛んでいました。 汚れたおむつの上には、かぞえきれないほどのショウジョウバエが浮いています。 それがいっぱいになると、ゴム手袋をして、一枚ずつ手で下洗いしてから洗濯機に入れて洗うのですが、これは臭いし、汚いし、本当にイヤでした。 泣きそうになりながら、逃げ出したくなりながら、それをするときはいつも、自分がまるでシンデレラになったような気分でした。 (なんてかわいそうな私…。 こんなこと、どうしてしなくちゃいけないんだろう?) ところがあるとき、急にひらめきます。 (もしも私が魔法使いだったら、 この山になった汚いおむつを あっという間に真っ白にしちゃうのにな) そう思ったとたん、あれほどイヤだった作業が、なんだかちょっと楽しいような気さえしてくるのです。 自分がこのおむつの山を、いかに素早く、 いかにきれいに洗えるのか? そう、どこまで魔法使いに近づけるか? という新たな目標が見つかったわけです。 自分がどんなに泣いても、ごねても、 このおむつを洗わなければいけない ということに変わりはない。 それだけが自分の前にある「現実」ならば、 どうせやるなら、楽しくできる方がいいじゃん♪ そんな気持ちに切り替わっていったのでしょう。 掃除のときも、料理のときも、この 魔法使いマジック は、かなり私には有効でした。 そして実は今でも、自分が逃げ出したくなるような状況に陥ったとき、心のどこかで、 (どうする? 泣く方にする? 笑う方にする?) と、自分自身に問いかける魔法使いが自分の中にいるような気がします。 相田みつをさんの書の中に、 「しあわせは いつもじぶんのこころがきめる」 ということばがありますが、私の中にあるのは、 「しあわせもふしあわせも いつもじぶんのこころがきめられる」 という感じなのかもしれません。 そういう意味で、林芙美子さんには、ものすごく共感するものがありました。 一般的には彼女は貧しく、苦労人だったという解釈がされているようです。 でも私の目には、恐らく彼女は傍で見ているほど自分が不幸だと思い続けてはいなかったような気がします。 どん底まで気持ちが沈み、もう這い上がれないだろう、と他人が思うところまで堕ちても、自分自身でとことん自分は不幸だと自覚することがあっても、それでもやっぱり彼女自身の力で喜びや幸せを見つけられる天才だったのかもしれない、と思うのです。 あとの解説のところに、 「はじめて出版社の?社員が彼女をたずねたとき、彼女は着る浴衣さへ売りつくして、赤い海水着一枚であった」 というような文があったのですが、それにも衝撃を受けました。 いつか作家として、文学で身を立てたい、という強い、強い志を、どんな生活の中にあっても持ち続けていた彼女だからこそ、これだけの作品を遺せたのでしょうね。 今回読んだ作品の中で、私が一番好きだったのは『晩菊』でした。 56歳の娼婦上がりの老女の物欲、色欲を見事に表現している作品ですが、 これはなんというか… ド迫力 でした。 ここまでこの作品にゾクゾクしたのは、もしかしたら今、私が40代でこれを読んだせいかもしれません。 前半の、老女が自分を訪ねてくる男性のために身支度を整えるあたりは、同じ女性として身震いするほどのカッコよさを感じました。 私が一番残念に思ったのは、林芙美子さんが47歳という若さでこの世を去ってしまわれたことでした。まさに命を削って作品を遺された林さんらしい生涯だったとも思うのですが、 彼女の50代、60代の作品も、ぜひ読んでみたかったです。 今、ちょっと踏ん張りときに入っている私。 このタイミングで彼女と出逢えたことで、私は林芙美子さんに大きな力を分けてもらったような気がしています。 いつか、私の生まれ故郷である広島を訪れるときには、尾道にある林芙美子像を見てみたいし、新宿の林芙美子記念館にも行ってみたいと思います。 ひなたまさみ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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