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お客様の接客を続けながらも 心の中では 奥のボックスが気になって仕方がなかった。
『今さら何をしに来たのだろう』
火照るような心の熱を感じた私は、 営業中である事もあり 冷静さを取り戻そう必死だった。
『何も言うまい』
そう思った。 今さら恨み節を言ったところで どうにもならないのは分かっていた。 それをしたところで ボスの無念が晴れるわけでもないし、 私の心のわだかまりが解けるわけでもない。 ましてやTという人間が悔い改め さめざめと涙するだろうはずもない。 たとえそうされても また、何も変わらないのは同じだった。
今さら私がTに 何を話しても訴えても 誰にとっても 何の意味ももたない事を 自分自身に言い聞かせ 火照がおさまったのを見計らい 私はTたちが陣取る 奥のボックスへとゆっくり足を運んだ。
『いらっしゃいませ』
私は言った。 Tは悪びれずに 『おう、元気にしとったか?』 と言った。 私は言葉なく笑顔のみで答えた。 席に着き 私は早々にまた事務的に 自分のグラスの用意をした。
まだ一言も発していなかった。 何を話していいか分からなかったのが一番だったが あえて居心地の悪い沈黙を作るためでもあった。
無言の抵抗とでもいうのか、 私は私の思いを そういう形でTに示していたのかもしれない。 私らしくない行為だと思うが 今さら何をどう弁解されても 受け入れるつもりはないという 小さなアピールのつもりだった。
Tは程なく 自分の身の上話を始めた。
ボスを裏切り飛んだ自分のこれまでの身の上。
あの後、どんな風に自分が生きてきて どんな思いで暮らしてきたか。 私は極力相槌だけで応えるよう心がけた。 Tの生き方を批判や否定をする言葉を 一言でも私が発したら
私が負け、 そう思った。
今まで心に押し込めてきた想いが 一気に噴出す事は明らかだったからだ。 私はそんな無意味で惨めな事を この店内で味わいたくはなかった。 否定はしない、 でも決して肯定もしない、 というスタンスでいるべきだと 思ったのだ。
Tはそんな私の思いに気付くはずもなく、 さらに自分の身の上を 身振り手振り、 ヘタなジョークを盛り込み 口角泡を飛ばし続けた。
もしかしたら さして反応のない私の対応を 理解か同情を得られたのだと 勘違いしていたのかもしれなかった。 Tはそれぐらい楽天的な男なのだ。
気付けば営業時間も終わりに近づいていた。
私にはどの話も 理解など出来ない話ばかりだった。
自分がどれだけ辛かったか 今もその状況は続いており、 それでも頑張って生きている、 と言った、ともすれば 美談にでもなりうるような話であった。
私は疲れた。 ほとんど相槌を打つだけだったが 心が疲れた。
自分の努力ばかりを 美しく話すばかりで 感謝、あるいは謝罪の言葉が一つもない。 こんな身勝手で子どもじみた つまらない男を ボスが信じて加勢していたのかと思い 脱力していた。
車の手配をし 車を待っている間、 Tは連れの男と金銭の話をしていた。
私はどうでもよくなって 内心、放心のまま 言葉を脳に留めないよう 耳から耳へ 受け流していた。 『早く家へ帰りたい』 そればかりを考えていた。
すると一つの台詞が 麻痺した脳を刺激した。
『死んだ人間になんか返さんのが普通やろ』 『あの世まで金持って行けんやろ』
クールダウンしてどれだけも経ったはずの心が 急速に熱くなった。 身体が小刻みに震えているように感じた。
あえて私は小馬鹿にしたように鼻で笑った。
『そんなもん?』
私は言った。 Tは私に向かい直し 私だけに語りかけて来た。
『なんか変か?』
私は呆れたように 『それは違うんじゃない?』 と精一杯の作り笑顔で言った。
Tは待ってましたとばかりに 食って掛かって来た。 Tの持論が延々と続いた。
私にはTの持論は 余りにも自己中心的なもので 何一つ受け入れられなかった。 悔しさも 悲しさも 感じなくなっていた。
疲れた一日。
事情を知るお店のスタッフが 帰り際 私を気遣ってくれたのがせめてもの救いだった。
帰りの車中、 運転手の語りかけを 適当に聞き流しながら 窓の外をボーっと眺めていた。
山なりになったバイパスの上に来た時、 深夜にも関わらず 家々に灯る小さな明かりが目に入った。
彼にも家族が居ることを思い出す。 Tはある事情で二つの家族を抱えている。 私はその一つの家族と交流があり、 その奥さんや子どもさんの笑顔が リアルに浮かんだ。
ボスは死んだ。 Tは生きている。 Tの家族も生きている。 そして私も 私の家族も 今、生きている。
心にポっと灯った炎は 大きく燃え上がる事はなく、 静かに消えた気がした。
ベッドに入ると 程なく私は眠りに落ちた。
疲れた一日。
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