テーマ:楽天写真館(355826)
カテゴリ:旅行
週末を利用して孫たちに出逢いに東の方角100kmの鳥取に行ってきました
鳥取はほぼ街並みの北方が久松山、帝釈山の峰々に囲まれ、南方は遥か中国山地が迫ってきているような地形です。 だから、夏の暑い時期にはフェーン現象となる南風が日本海に逃げ難くなってそれが全国でも有名な夏場の暑さの原因ではなかろうかと同情しきりです。米子も大山の影響で暑いですが鳥取には勝てません。 天正8年10万の秀吉軍に包囲された鳥取城(久松山)は兵糧攻めにあいました 秀吉軍の中国攻めで三木(城)の干殺し、鳥取の大渇殺と後世まで言い伝えられた戦いが行われ5ケ月間の籠城、兵糧攻めで城主吉川経家公は切腹、その家来は沙汰なしで決着、無念の落城となりました(死亡した馬肉、人肉を食べ籠城戦を戦ったと云われています) 鳥取を救った経家も偉かったですが秀吉(当時は羽柴秀吉)も大した器だったですね。 その反面信長は反抗者には容赦なく老若男女、焼き払い「魔王」とまで呼ばれていた人物ですね やはり人間性(性格)の違いでしょうかね その遠征軍(羽柴軍)の本陣は久松山から直線で1.2km程度・・お互いが睨みあう距離で その本陣としていた帝釈山を後世では本陣山と呼ぶようになりました。 現在でも本陣山の頂上には土塁跡が何十mにもわたっての痕跡が残っています 随分詳しいでしょう・・・・ハイ 実はその場所のマイクロウェーブ局舎で私は4年半仕事をしていました <無線中継所>昭和50年頃です 山陰ルートの大束市外電話回線、4回線のTV中継線が常時電波の中継基地としてここ本陣山に在ったのです。 戦国時代から400年余り、周辺は雑木林となって昼休みには早春の山菜、秋のキノコ狩りを楽しんだものでした --------------------------- 許される言葉ならこの頃が私にとって一番輝いていた頃だったかもしれません 2番目の子供も生まれ無線設備、発電設備の試験保守、建設業務の思い出の鳥取、バリバリと仕事に精を出しました・・・・無性に懐かしいですね 少しばかり秋の市内を歩いてみました <鳥取県庁前>今年の秋はもう町まで降りて来ています 20分程歩くと懐かしい社宅・・・・ところがこのありさまは一体全体 当時の転勤は家族単位でした、今のような単身赴任なんてケチな考えはありませんでした 社宅連中揃ってのお付き合いで本当に楽しい思い出です。 <夢の跡>ここに鉄筋2階建てアパート16世帯が住んでいました しかし、「売地」とは・・・・・惨酷! です。 娘、孫、婿の住処はこの場所から500mほど離れています 長女は4歳~6歳でしたのでこの頃の生活を覚えて社宅も鮮明に覚えているそうです -------------------------------------- 鳥取~米子はわずか100kmなんですが用事がなければ出かける訳はありません。 とっとり砂丘、最近脚光を浴びてきたジオパーク・・・くらいなものです。 が近年から鳥取砂丘を舞台とした「砂の館」での彫刻が有名になって来ました。 当初は大テントの中での展示だったそうですがその後砂丘の小山の一角に大殿堂を建築してその中に砂の彫刻が展示されるようになると風雨に晒される事もなく空調設備で人も彫刻も炎天下でも火殺しに晒される事はありません(笑) この「砂の美術館」に家族と一緒に出掛けてみることにしました。 <入口>これは屋外設置で、ここから有料で館内に入ります 長くなりましたので前篇の終わり・・・・です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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