テーマ:近代化遺産を歩く(146)
カテゴリ:近代化遺産・検見川送信所
検見川送信所のある千葉市花見川区検見川がどんな町か?首都圏近郊にお住まいの方は分かるかもしれないが、改めて簡単に書いてみよう。
夕焼けの中の検見川送信所 千葉市は東京のベットタウン。総武線、京葉線にはたくさんのマンション、一戸建てが並ぶ。 新検見川は幕張と稲毛の中間にある。東京駅から隣先の稲毛までは快速で35分。新検見川には快速は止まらないこともあり、駅前は稲毛に比べると、開けていない。 検見川の一帯は先に京成電鉄の検見川駅ができ、JRはその後に出来た。だから、新検見川駅という。ちなみに、閉局になるまでは電車からも、検見川送信所のクモの巣状に張り巡らされた空中線が見えたという。 江戸時代は漁業と海運の要地だった。江戸とは海路で、内陸へは花見川、御成街道を結んだ。以前、長沼の大仏について書いたが、この大仏も検見川までは海で運ばれ、その後は川を上り、御成街道を通ってきたらしい。 開けていたのは海岸沿い。今はシャッター街だが、昭和の木造建築が無数建っており、ちょっとしたタイムスリップを味わえる。 大正時代、送信所の周囲はかんしょ畑で、広大な土地が開けていたようだ。昭和5年には松井天山という人物が書いた「千葉県検見川町鳥瞰図」にも送信所(図右上)は載っているが、周囲から離れてポツンとある。 「Go!Go!しんけみがわ! 新検見川地域情報」菖蒲湯@検見川「梅の湯」の記事中に図版がある。 この場所が選ばれたのは東京から近く、広大な土地があったから。当時、電力会社はなく、各地場の有力企業が供給していた。というわけで、東洋一の大電力無線送信所は京成電鉄から、電気をもらっていたのだ。 ちなみに、千葉市史編纂委員会が編集した「千葉いまむかし No.4」(91年3月)によれば、庶民の家では電気は「東京電灯」との定額契約だったという。1軒に1灯で、それも30燭光(昔の光の明るさの単位、1燭光はろうそく1本分)分というから、それほど明るいものではなかったようだ。商店街はたくさんの電灯をつけるので、メートル制を用いられていたという。 送信所には、世界を渡った2人のコスモポリタンが関わっている。 1人目は送信所の設計は逓信省のエースで東大出身の吉田鉄郎氏。同年代には日本武道館などを設計した山田守氏がいる。吉田氏はドイツ語で「日本建築」の評論を出し、後に日本人の訳によって、逆輸入されたという才人。 建築家・吉田鉄郎の『日本の建築』 そして、2人目は検見川送信所の初代所長に着任したのは鹿児島出身で、東北帝大を卒業したキャリア2年目の菊谷秀雄氏。昭和9年には米客船に乗り、ハワイ経由でサンフランシスコに渡り、その後、ヨーロッパにも研修旅行した。 当時、実際は所長という肩書きはなく、主任。しかし、周囲から「所長さん」と呼ばれていたことから、菊谷氏自身も所長とついた判子を作っている。逓信省のお偉いさんからは所長判を見て、「そんな辞令は出していない」と怒られたらしい。 メンバーは各所から集められた。優秀な人材を喜んで出すところはなく、やや個性の強い人物がいたようだ。しかし、彼らが後の日本初の国際放送を成功させた。 また、新検見川の線路をまたいだ東側には東大農学部の研究施設&グラウンドもあり、研究に勤しんでいた。1952年には、1200年前の太古蓮を発見し、発芽、開花に成功させた大賀一郎博士が登場する。このニュースは米誌「ライフ」にも掲載された。 蓮の実が発見されたのは、弥生時代の遺跡から。検見川の文化、歴史を感じさせる。 こうしてみると、魅力的な要素を持った町だ。 日本初の国際放送を行うなど日本の通信に大きな貢献をした近代化遺産・検見川送信所が取り壊しの危機を迎えています。これを保存、再利用できないかを考えるプロジェクトです。 賛同してくださる方は以下のソースを貼り付けてください。 <a href="http://moleskine.air-nifty.com/photos/kemigawamusen/" target="_blank"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/47/0000060947/20/img2159e7f1zik6zj.jpeg" width="170" height="60" alt="musenhozon.jpg" border="0"></a> 去年の日記は? 2006/8/20 浸透性塗料インウッドを追加注文 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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