テーマ:近代化遺産を歩く(146)
カテゴリ:近代化遺産・検見川送信所
日本初の国際放送を行うなど日本の通信に大きな貢献をした近代化遺産・検見川送信所が取り壊しの危機にあります。これを保存、再生できないかを考えるプロジェクトです。 賛同してくださる方は以下のソースを貼り付けてください。 <a href="http://moleskine.air-nifty.com/photos/kemigawamusen/" target="_blank"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/47/0000060947/20/img2159e7f1zik6zj.jpeg" width="170" height="60" alt="musenhozon.jpg" border="0"></a> 検見川送信所の記録はけっして多くはない。 初代所長を務められた菊谷秀雄さん(1899/5/5)がお書きになった自伝「検見川無線の思い出」(平成2年3月発行)は貴重な歴史資料であると同時に、面白い読み物だ。 2部構成で、1部は昭和5年10月27日、日本初の国際放送が行われるまで、2部は昭和8年12月に米国出張を命じられ、米サンフランシスコに着くまでの船旅が描かれる。 この本は非売品で、著者の菊谷さんが図書館に贈呈したようだ。菊谷さんは本の終わりに、「謹呈」と題する手書きの文のコピーを残している。 菊谷さんの自伝を基に、日本初の国際放送がどのように行われたかを自分なりに書いていきたいが、まずは手書きの文から引用させていただきたい。 「当初、台湾との無線話開通のため、国産の部品を使って試作した、出力5キロワットの短波無線電話送信機J1AAを用いて、台湾と通話試験をする傍ら、日本と米・独・英との交歓放送を度たび行い、特に昭和五年(一九三〇)十月二十七日の夜には日・米・英の三国の首相が交るがわる自分の声を電波にのせて、世界中に放送した『軍縮放送』を行いましたので、『J1AA』と『検見川無線』の名は世界の隅ずみまで響きました。 今は撤去されたアンテナも鉄塔もなく、鉄塔の台座と局舎が残っているだけですが、これらも何日かは姿を消すでしょう。若き日に精いっぱい働いた『検見川無線の思い出』を書き綴って、後に残したいと思って筆をとりました」 (中略) 「お暇の折に読んで『検見川無線』を思い出して下さい。 荒れ果てた旧局舎の前には記念碑だけは建っていますが、安達逓信大臣の植えられた記念樹もなく、人家は敷地の近くまで押し寄せています」 きっと菊谷さんは送信所は跡形もなく消えるが、この本を書き、図書館に預ければ、その送信所の歩んだ道だけは後世に伝えられるとお思いになられたのではないだろうか? しかし、奇跡的にこの建物はまだ残っている。 菊谷さんご自宅の連絡先を知ることができたので、思い切って電話をかけてみた。8月15日のことだ。 長男の奥様という方が電話口に出てくれた。検見川送信所が取り壊しの危機にあることはご存じなく、びっくりされていた。 僕が「日本初の国際放送が成功した場面では胸が熱くなりました」と言うと、奥様は「そうですか、そうですか」と聞いてくださった。 思い切って、菊谷さんのことを聞くと、13年前に亡くなられた、ということだった。享年92歳。大往生である。この自伝を書かれてから、2年後のことだ。 もっと早くに、コンタクトを取るべきだった。昔を知っていらっしゃる方はどんどん天寿を全うされる。 送信所もどんどん風化していく。保存のために残された時間はあまりないだろう。 検見川送信所、コールサインJ1AA この建物はまだ何かを送信している… この1文を保存計画サイトに書き加えた。 去年の日記は? 2006/8/21 植え替えたゼラニウム、復活するか、枯れるか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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