テーマ:近代化遺産を歩く(146)
カテゴリ:近代化遺産・検見川送信所
検見川在住のNさんが年から年まで送信所に勤務していたIさんを紹介してくれることになり、1日午前、新検見川駅で落ち合う。
Nさんは「Go!Go!しんけみがわ! 新検見川地域情報」の管理人、花園シンさんのご紹介で、地域活動もされている方。お会いするのは2度目である。 Iさんはイベント当日は参加できないということだが、別の方を紹介していただける、とのこと。 お二方とも、70歳を越えられている。検見川送信所のことがなかったら、お知り合いになることもなかったろう。みなさん立派に勤めあげ、第二の人生を歩まれている。 最初はバーチャルなネットでの交流から、実社会での交流へ。そして、紹介の紹介で、人々のネットワークが少しずつ広がっている。 Iさんはニコニコして、僕の話を聞いてくださる。好好爺というのは、こういう方のことをいうのだろう。 「自分が働いていた建物がそんなに有名な方の設計による貴重な物だという意識はなかったですねぇ」と率直な感想。 当事者はそんなものかもしれない。 送信所跡では、この辺りが敷地で、ここに池があって、テニスコートがあった、など説明していただく。 ここしばらく、関連する本に隈なく当たり、送信所通になったつもりだったが、実際に勤務していた方の話を聞くと、興味はつきない。 いま残っているのは局舎だけである。 「私らからすると、こちらはえらい人がいたところ、という印象ですね。私らはもう壊された別の棟で働いていました。こちらは、古くて機械などを入れることができなかったんで」 えらい人はこちらから、我々はこちらから、局長室はここ、といった説明を受け、出勤風景を思い浮かべる。 築90年の建物は現役時代から頑強だったそうだ。 「銃撃を受けても、壊れないように作られたようですよ。戦時中、攻撃されるようなことはなかったのですが」。 たとえば、こんな話。 二期工事で作られた建物の壁に穴を開けようとした時は簡単だった。しかし、この局舎ではドリルがまったく歯が立たず苦労したそうだ。 入っている鉄筋の数が違う。それは無残にもむき出しになっている部分からも見て取れる。 閉局の時に取り壊しの話が出た時があった。業者が一旦は引き受けたが、後からの調べで基礎部分が思いの外、頑強に作られていることが分かり、これでは割に合わないと断ったこともあったという。 これが閉局後、無人化、廃虚化した後も建物が残った理由である。 設計者、吉田鉄郎氏は緻密な計算をする人だった。 送信所は関東大震災直後に設計された。一瞬にして廃虚になった東京を見て、建築家が何を感じただろうか?いままで日本家屋では重要視されていなかった耐震に取り組んだのではないか。 これはあくまでも、僕の想像にすぎない。 しかし、送信所にまつわる面白い話はIさんからいろいろ聞くことができた。 現在企画中のイベントも面白いものになりそうだ。 日本初の国際放送を行うなど日本の通信に大きな貢献をした近代化遺産・検見川送信所が取り壊しの危機にあります。これを保存、再生できないかを考えるプロジェクトです。 賛同してくださる方は以下のソースを貼り付けてください。 <a href="http://moleskine.air-nifty.com/photos/kemigawamusen/" target="_blank"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/47/0000060947/20/img2159e7f1zik6zj.jpeg" width="170" height="60" alt="musenhozon.jpg" border="0"></a> 去年の日記は? 2006/9/2 レッドシダーで自転車置き場作り~一気に完成形へ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[近代化遺産・検見川送信所] カテゴリの最新記事
|
|