テーマ:近代化遺産を歩く(146)
カテゴリ:近代化遺産・検見川送信所
今宵は満月。月明かりがまぶしいですね。
満月といえば、こんなイベント。 日本初の国際放送77周年記念 「ほぼ満月ただの月見@検見川送信所」 日時:10月27日(土)午後3時~ 集合場所:JR総武線・新検見川駅徒歩2分、はなのわ広場 参加費:無料 主催:「検見川送信所を知る会」 日本初の国際放送が行われた昭和5年10月27日から77周年を記念し、月見をしようというイベントです。 月齢カレンダーによれば、この日は15.9(大潮)。ほぼ満月。 さて、検見川送信所が廃墟と化した原因の1つは、この建物のストーリーが語られなかったことにあるように思えます。 実は「プロジェクトX」並の出来事があったのです。そんな話を書いていこうと思います。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ 今から77年前の昭和5年10月27日(月)夜のこと。当時日本の首相だった浜口雄幸の声がサンフランシスコ、ロンドンへと電波に乗って、届けられた。これが日本初の国際放送だった。 当時、日本の無線は黎明期にあり、アメリカからは海外に向け電波を飛ばすことは日本には無理ではないかとさえ言われた。そんな中、検見川送信所の男たちは日本初の試みを成し遂げたのだった。 その現場を指揮したのは菊谷秀雄。彼は東北帝国大学を卒業後、逓信省に入り、2年目の1926年(大正15年)4月に所長として赴任している。なんと、わずか26歳であった。 突然の着任命令だったが、別の人物が断ったらしい。当時の検見川は僻地と見られており、誰もが喜び勇んでいくような場所ではなかった。 「やっと東京に慣れたところだったのに」と菊谷は思った。しかし、「これも運命だ。よいこともあるだろう」と気を取り直した。彼は父親譲りの運命論者だった。 ここに集まった所員も曲者ぞろいだったようで、菊谷はいろいろ苦労したようだ。 1930(昭和5年)は、検見川送信所が最も輝いていた時代だった。菊谷は国産初の短波無線送信機「J1AA」を完成させ、5月には台湾との無線通話実験を成功させた。さらに、6月にはベルリンと結ぶなど成果を上げつつあった。 そんな菊谷が公務局からの急な呼び出しを受けたのは10月11日(土)朝のことだった…。 この続きは明日発行予定のメールマガジン「検見川送信所J1AA通信」に掲載します。 購読していただける方は以下のURLからお申し込みください。 http://www.mag2.com/m/0000246340.html バックナンバーには創刊準備号があります。 検見川送信所についてはここで過去記事をまとめています。 日本初の国際放送を行うなど日本の通信に大きな貢献をした近代化遺産・検見川送信所が取り壊しの危機にあります。これを保存、再生できないかを考えるプロジェクトです。 賛同してくださる方は以下のソースを貼り付けてください。 <a href="http://moleskine.air-nifty.com/photos/kemigawamusen/" target="_blank"><img src="http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/47/0000060947/20/img2159e7f1zik6zj.jpeg" width="170" height="60" alt="musenhozon.jpg" border="0"></a> 去年の日記は? 2006/9/25 2日間、家を空けたら、植物がへなへな お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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