【平和記念公園・あなごめし『うえの』の穴子飯弁当】わんこと一緒に広島世界遺産&福岡オフ会の旅 ~ソフトクリームも忘れずに~
4/12朝の体重:プチ4.5kg大地5.2kgメレ3.7kgミント5.3kg*******************************************************写真をクリックすると、フォト蔵で大きくして見られるよ続いては平和記念公園をお散歩『原爆の子の像』2歳の時被爆し、10年後に白血病を発病して亡くなった佐々木禎子さん。その死に衝撃を受けた同級生たちが、「原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑をつくろう」と全国へ呼びかけ、全国3,100校余りの生徒と、イギリスをはじめ世界9か国からの支援により、完成したのが、高さ9メートルのこのブロンズ像です。三脚のドーム型の台座の頂上に金色の折り鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像が立ち、左右には明るい未来と希望を象徴する少年少女の像があります。像の下におかれた石碑には、「これはぼくらの叫びです これは私たちの祈りです 世界に平和をきずくための」という碑文が刻まれています。像の制作は、当時東京芸術大学教授だった菊地一雄さん。塔の内部には、子どもたちの気持ちに感動したノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士が寄贈した古代の銅鐸を模した鐘と金色の鶴がつるされ、風鈴式に音が出るようになっています。(現在この鐘と鶴は、広島平和記念資料館東館1階ロビーに展示されています。)原爆死没者慰霊碑の屋根の向こうには平和の灯、さらにその奥には原爆ドームが見えます。『原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)』世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願して建立されたこの碑は、東京大学教授(当時)丹下健三さんが設計したものです。原爆犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちから、屋根の部分がはにわの家型をしています。碑には、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という碑文がきざまれており、中央の石室には、国内外を問わず、亡くなった原爆被爆者の名前を記帳した原爆死没者名簿が納められています。名簿は関係者の申し出により書き加えられ、平成26年(2014年)8月6日現在で、107冊(292,325人の名前が記帳された106冊と「氏名不詳者多数」と記された1冊)になっています。『平和の灯』東京大学教授(当時)丹下健三氏が設計したものです。台座は、手首を合わせ、手のひらを大空にひろげた形を表現しており、水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和への願いをこめています。この火は、昭和39年(1964年)8月1日に点火されて以来ずっと燃え続けており、「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっています。毎年、核兵器廃絶と被爆者援護の充実を訴えて、広島県内の市町村を一周する「平和の灯リレー」が行われています。また、平成6年(1994年)に広島市で開催されたアジア競技大会の聖火に点火されるなど、各種行事において平和のシンボルとして採火されています。『平和祈念像(草野心平の詩碑)』全国の学童の募金や広島商工会議所などの協力により建設されたもので、像は円鍔勝三氏の寄贈によります。ちょうど、原爆死没者慰霊碑を見守る格好で、若い母親に抱かれた子どもが平和のラッパを吹いています。製作者の円鍔氏は除幕に際して「親から子どもへ、きのうよりもあすへ。三日月もやがて満月になる。新しい未来を求めて、平和のラッパを鳴らしたい。」と意図を語りました。『嵐の中の母子像』襲いかかる業苦に耐え、悲しみを乗り越えていく母親の強い愛情を示す像に市民の平和への願いを託しています。札幌出身の彫刻家で、「わだつみの像」をはじめ、人間愛に満ちた多くのモニュメントを残している本郷新さんの作品。昭和34年(1959年)、第5回原水爆禁止世界大会が開かれた折、原水爆禁止日本協議会から当時の浜井広島市長に、原水爆禁止運動推進への感謝のしるしとして、この像の原型となった石こう像が贈られました。その後、この大会の成功のために尽力した、広島市婦人会連合会が「平和記念公園への設置」を呼びかけ、ブロンズ像にするための募金活動を行い建立され、広島市に寄贈されたものです。『平和の像「若葉」(湯川秀樹歌碑)』「まがつびよふたたびここにくるなかれ平和をいのる人のみぞここは」という湯川秀樹の歌をきざんだ碑です。(「まがつび」とは、災害・凶事を起こす神。)「中間子理論」を確立した日本初のノーベル賞(物理学賞)受賞者湯川博士は、昭和29年(1954年)アメリカの水爆実験に衝撃を受け、以後、世界科学者会議(パグウォッシュ会議)を開催するなど核兵器と戦争の廃絶を訴え続けました。「私は、真理の探求ということを誇りに思うし、自信を持っているし、私は一生それを貫いてきた。何の悔いもない。けれど、8月6日のあの事件を聞いたときに、科学者は科学者としての自分に対する責任があることを知った。」(湯川秀樹)少女と子鹿のブロンズ像は、広島県御調町生まれの彫刻家、円鍔勝三さんの作品です。『原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑』昭和13年(1938年)国民精神総動員法により、学校も戦争体制になりました。昭和16年(1941年)に呼び名も国民学校と変わり、現在の小学校にあたる初等科(6年制)と、中学校にあたる高等科(2年制)がありました。戦争が激しくなると、初等科の3年生以上の児童は空襲を避けるため田舎へ強制的に疎開させられました。その結果、幼いため親元に残された1・2年生と、建物疎開作業に従事させられた高等科の生徒が原爆の被害にあいました。犠牲となった国民学校教師・子どもの数は、正確にはわかりませんが、教師約200人、子ども約2,000人と推定されています。碑は、原爆によって生命を奪われた子どもと教師を慰めるとともに、「三たび原爆を許してはいけない」という平和教育を、現在及び未来に推し進める決意を表すもので、毎年8月4日には、遺族、広島市内の小・中学校の児童・生徒の代表、教育関係者が多数参加して、慰霊祭を行っています。「太き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり」被爆歌人正田篠枝さんのこの短歌は、原爆の劫火の中で、教師を頼りながら死んでいった児童・生徒と、彼らを気遣いながら死んでいった教師の無念さを表現しています。(以上、全て広島市HPより)平和の道から見た『平和記念公園』『原爆ドーム』、満開の桜の木の下でお花見を楽しむ人たち。普通に暮らせるということがどんなに幸せか・・・あらためて考えさせられました。ホテルに戻ったらみんなねむねむHITONは『あなごめし うえの』さんで予約しておいた穴子飯弁当をいただきまーす寝てませんでしたっけ?(笑)念入りにチェックチェックこの顔美味しいものはすぐわかるんだよね~今回ミニサイズ(通常サイズの半分の大きさ)を購入とーーーーーっても美味しかったまた食べたいなぁ。さぁ、翌日は初めての九州だよ~続きますもしプチ大地メレを気に入っていただけたら、応援クリックよろしくお願いします( 別ウィンドウが開ききるまではそのままでお願いしますm(_ _)m )今までのハンドメイド作品をまとめました 画像をクリックすると今までの作品をご覧いただけます