生と死に付いて
私はもう高齢になり、良く死の問題を考える様になった。だけど過去の有名人は誰一人として、死に付いて正解を残して居ない。だから非常に難しいテーマで、結論は出ない。 生と死は人それぞれなのだろうと思う。第一この世には色々な宇宙があり、地球はその1つの宇宙の中の太陽の中の惑星でしかない。 夜空に見上げると、沢山の星々が見える。全て太陽と同じ様に自分で輝いている星であり、あの北極星でも430光年の遠くの星でしかない。つまり夜空で輝く北極星は430年前の光が届いているだけなのだ。 そんな事を考えると、沢山の星の周りには、無数の惑星が回っており、地球と同じような星もあるだろう。そして生命もある筈だ。 果たしてそれ等の生命が全て、あの世に行って、安楽に暮らせるのだろうか?と悶々と考える。 そして生死は植物にも動物にもあり、動物でも哺乳類から魚類とか、細菌まで居る。その中で、生死を考えるのは人間だけだ。そしたら、人間の死の後だけに、何かが有る筈が無い様に思う。 結論から先に言うが、生と死は対局の反対語ではなく、同義語の様に感じ始めた。生の終局である死は、生が終わっただけで、それからの新しいスタートは無いと感じる。 生死を考えると、生の対局に死があるから、死後にも、色々な世界が有ると想像してしまうが、恐らくそれで終わりだろう。まあ人は夫々の感覚で、想像するだろうから、万人への正解はあり得ない。 その様な悶々とした悩みの中に、色々な宗教が排出した。そして或る解答を出したのが、天国と地獄だろうと想像する。 死んでから何かがあると想像し、そんな感情から一部の宗教が生まれ、地獄と極楽が想像されたのだろう。それを信じると善良な良い人生を送れるのだから、悪い事では無い。 そして、色々な宗教が生まれた中でも、日本の宗教は自然そのものであり、路傍の石にも神が宿る特異なモノだ。その為他教を排除しない。平和な宗教だと感じる。 まあ各地に生まれた宗教は、自分の宗教が正しいのだと思い込み、その為に大勢の人々が阿鼻叫喚の内に虐殺された歴史は一杯ある。こうなると宗教は悪魔でしかない。 日本史でも「南無阿弥陀仏」と念じれば極楽に行けると信じて、信長に大勢が殺された。最近の世界では、イスラエルのパレスチナ問題も同じである。 だけど、ホントに地獄や極楽があると証明した人は居ない。要は証明できないのだから、それぞれが信じる以外に正解は無い。 死後を信じる人は幸かもしれないし、不幸せかもしれない。地獄極楽を信じない人も同じだろう。 要するに生の終局は死であるが、それは死と言うよりは無だと感じている。そしてこんな事を考えるのは人間だけだ。