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ひよきちわーるど

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2006.09.20
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カテゴリ:think about myself

今日の日記は完全なる呟きです。
頭のなかを整理するためのものです。




信仰のことにつきましてこの日記の中でも様々書き連ねて参りましたが
今また、スランプに陥っている状況です。

今迄もそうでしたけれど 数年おきにスランプ状態となり
さまざま葛藤を繰り返しているわけです。

そうはいいましても 信仰を続けることが嫌になったとか重荷であるとか
そういうことでは決してなく、むしろ逆です。

葛藤の時期を乗り越えてまた新たに頑張ることができるという
私にとりましてはまたとないチャンスでもあるわけです。



・・・幼い頃から 私は何かありますと仏壇の前に座り
「○○してください」という形で祈っておりました。
けれどつい最近になりまして

「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも
 若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」

という言葉にぶつかり
今改めてその意味を問い直しているわけです。



仏に「○○してください」と祈り、全てを委ねるのはあくまで他力本願でしかなく
その他力本願の姿こそ「外道」であると。

以前の日記にも書きましたけれども
他力本願では決して生死の苦しみを乗り越えることはできないと思うのです。

あらゆる苦しみを乗り越える力はもともと自分の中に秘められており
神仏というものは 自身に内在するその力を存分に引き出すための縁に過ぎないと。

・・・そう、理屈では分かっているのです。
けれど、「自身に内在する力」というものを考えてみましたときに
この自分の中に秘められている力がどのようなものであるかは分からないけれど
所詮 凡夫に過ぎない「自分」なのです、
その自分の中に隠されている力など大したものではない、と
そのような考えも私自身の中に存在するわけです。




昨日はね そのことにつきまして夫と時間をかけて話し合いました。
夫は信仰の面におきまして私の先輩でもあるわけです。

先に挙げました考えを夫にぶつけましたとき
「その考え方は一見謙虚ではあるようだけれども傲慢だ」と言われました。

自分にたいしたことはできない。
自分の中に秘められている力など大きなものではないと考えることは
一見謙虚のようではあるけれども、人間という生命体に対する侮辱であると。





・・・正直に書きましょうか。
なんだか 今、混乱しているのです。

いや、混乱という言葉で済ませることはできません。
自分が築き上げてきた考え方を「一刀両断」されまして
信仰についてどう考えていけばよいのか分からなくなっているのです。

そんなに考え込まなくてもよいではないかという思いもどこかにあります。
しかし信仰を続けていく限り、いつかは必ずどこかでぶつかるべき問題だったのでしょう。

例え今逃げたとしましても 数年後にはまた私の前に出てくるわけです。





夫の言ってくれた言葉を頭のなかで反芻し、考えてみました。

考えてみましたときに(まだ不完全ではあるにせよ)
私の中にひとつの結論が生まれました。

やはり私の中におきましては
仏と凡夫というものの間には埋めがたい距離があるのだと、
私たち凡夫の届かぬ程の高みに仏はいるのだと、そういう考えがあったのです。


そしてまた自分の心の内には
美しいもの 邪悪なものが両者混然とした状態で存在しています。

自覚できる「邪悪なもの」に対しては対処し、直していくことも可能だろうけれど
自分自身でさえも伺い知ることのできない「心の奥の闇」。
その「闇」が一体何であるかは分からないのだけれど 
その存在を感じ取ることだけはできます。

・・・・まさに その闇こそが「無明」なのだと思いました。






仏の偉大さを知るが故に 仏と我々凡夫は全く違う存在なのだと、
どうあがいたって我々は仏になることなどできないのだと

何もそこまではっきり断言するつもりはないのですけれど
しかし、その考えに限りなく近いものが私自身の中に存在するのです。
存在するという言葉ではまだ不十分ですね。
染みついているとでも申しましょうか。

「どうあがいたって我々は仏になることなどできない」
・・・・まさにそのような考えが「二乗」ではないかと思いました。
最も忌むべき「二乗」の生命が私の中に色濃く存在しているのだと思いました。





権大乗経におきまして決して成仏の許されなかった「二乗」と「女人」。

法華経におきましてようやく二乗作仏・女人成仏が許されたというのに
その法華経を学んでいるはずの自分が
(無意識のうちとはいえ)凡夫と仏とは全く違う存在であると捉え、
そしてまた仏の生命を自身の内に内在させているということを
未だ信じられずにいるのです。

いや、信じようという気持ちはあるのです。
そしてまた「仏の生命は自身の内に存在する」ということも
知識の上では理解しているつもりなのです。

しかし、自身の心の奥を見つめ直しますと
頭で理解するのみで 「信」までは到底至っていない。

・・・一体どこまで業の深い自分であることかと思いました。




こういう疑問に40歳という年齢でぶつかりましたことは
これは遅すぎるのか、それとも早いのか全く分かりません。

信仰をもつ人間であるならば誰しも ぶつかり煩悶する問題なのでしょうか。
答えはあるのでしょうか。

私自身、自分の人生を終えるまでに解決したい問題であり
また解決しなければならないものだと思います。








・・・・このような呟きを書きますのは 自分の心の整理をするためであると共に
これから続く自分の子孫のためでもあります。

おそらく 現在私がたもっております信仰を
これから先何代も続くであろう子孫もまた、たもってくれることと思うのです。

ユングの説が真理であるならば 今、私が抱えております信仰についての疑問点を
子孫もまた同じように抱えるのではないかと思ったのです。

その子孫に直接語りかけることはできません。
ですので、このブログという形を借りまして残しておきたいと思いました。

この「ひよきちわーるど」は何らかの形で残し いつかは娘に
「お母さんの記録」としてそのまま贈りたいと思っています。

このような日記など 記録として残しておくようなものではないと分かっております。
しかし娘にとりましては かけがえのない母の心の記録であり
子孫にとりましては 自分に繋がる先祖の記録であると思うのです。

匿名性の高いブログという形式のなかで(いや、既に楽天のお友達に対しましては
匿名性も何もあったものではありませんけれども(笑))
今回は信仰をたもつ者の葛藤、本音を素直に書き綴ってみました。












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Last updated  2015.10.01 21:58:03
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