バイブルにしたい
先日、とってもいい本に出会いました。南木佳士さんの「阿弥陀堂だより」これはおそらくわたしのバイブルになります。心にしみいる本とでもいえばいいのでしょうか。みなさんにも是非読んでいただきたいです。多分、わたしが不安障害というものを抱えてから読んだからこそここまで心に染みたのかもしれません。病気になってから色々「生きること」について考えました。こころが自分の無関係のところを走っていき、身体さえもむしばまれて。でもこの辛い経験を通して、自分が何を求めているのか、自分にとって何が大事なのかをなんとなくぼんやりとかんじるようになりました。この本はそのぼんやりとしたわたしの生き方の方向転換の輪郭をよりはっきりさせてくれるものだとも言えます。どんな本か軽く紹介しましょう。出版社/著者からの内容紹介忘れていた 真摯に生き人生を慈しむこと作家として自信を失くした夫と、医師としての方向を見失った妻は、山間の美しい村でふしぎな老婆に出会う。人生を問い直す傑作 内容(「BOOK」データベースより)作家としての行き詰まりを感じていた孝夫は、医者である妻・美智子が心の病を得たのを機に、故郷の信州へ戻ることにした。山里の美しい村でふたりが出会ったのは、村人の霊を祀る「阿弥陀堂」に暮らす老婆、難病とたたかいながら明るく生きる娘。静かな時の流れと豊かな自然のなかでふたりが見つけたものとは...。そうです。主人公の妻はエリートの医者として最前線で働きながら、パニック障害におち、そうして主人公のふるさとの農村で暮らしすこしづつ生きることの喜びを取り戻し、人生をやり直していきます。わたしは病気を経て、自然が前よりもとても好きになりました。そして生きることはとてもシンプルなものだと思うようになりました。生きる意味を問うたこともあります。こんな子として何も出来ないわたしは生きる意味がないとか、日々襲う恐怖や不安、体調不良に、生きることを放棄したいとおもったこともなんどもあります。でももしかしたら、今の私たちって生きることの本質を越えた「おまけ」にしばられているのかもしれません。本当は「息をして」「食べて」「寝て」「笑って」「怒って」「泣いて」・・・これが究極のように思えてきたのでした。それをしてるだけで意味がある。こう強く思えるようになってきました。 焦りや不安は余計なことから来るものであることも多くて。自然の中にいたらとっても小さな事に思えるような気もするのです。(といってもをつよくふあんに感じるのが症状なのですが)実際、わたしは不眠、過食とこの生きることの本質において病んでるわけです。だからまだつらい。この本質を見据えて治してゆったりといきたい。そう思えてきたのでした。そんなときに出会ったのがこの本です。多分わたしは妻美智子に自分を重ねたのかもしれません。 わたしは、小学校時代ものびのび遊びましたが、偶然勉強が得意だったのと、両親の仕事の事情により、中高はいわゆる一貫のカトリックの女子校にかよいました。とってもいい学校です。別にわたしは無宗教なのですが。ずっと宗教の事業があり神父様達にいろんな思想を学び、広い世界観や価値観を身につけることが出来ました。そのときは分からなかった言葉を今かみしめることがあります。仏教思想とかかなり深くて穏やかでこれからまた学びたいです。(またかきたいですね)そんな環境におかれていたことがわたしが精神世界に興味を持つきっかけになったのかもしれません。 でも同時に圏内1,2を争う進学校です。学校自体はのんびりしていて先生達は誰も「勉強しろ!」とかいわずむしろ放置気味。でもきっと生徒達はいわゆる小学校で一番だった子ばっかり。まじめな子ばっかり。なんとなく受験はあたり前に頑張る環境でした。わたしも友達をみて焦り勉強しました。今考えれば、高3のとき、身体性鬱が出たことがありました。毎日ストイックに勉強をつづけ(夏休みは一日13時間。。。だれにきめられたわけでもないのに)自分の中の不安に駆られ、それから逃げるためにひたすら勉強していたわたしは帯状疱疹、胃炎など謎の体調不良に襲われました。コレが多分最初に症状が出たときでしょう。(そのときは気づいてませんが)わたしはなんとなく京都に住みたいこと、実家を出たくてそれを説得させるためにじゅうぶんだということで京都大学を目指しました。無意識に回りも医学部を目指したり、いわゆる一流大学ばかりなのでなんとなくそれにのっからないと不安で仕方なかった。実際A判定がでつづけていたのに不安で不安で。なんとかのりきり、実は受験寸前は興味が変わり上智の国際関係法学科にいきたくなり(元々英語が大好きだったので)受かったのもあって(実は京大と同じくらい難しいし倍率は254倍。。)センターもみすり京大は適当にダメ元で受けたのでした。それが功を奏したのか運がよかったのか受かり、わたしは上智にいきたがりました。でもまわりはネームバリューからか「京大受かって蹴るなんてあほか」といわれました。結局親の京都のが近いじゃんーの一言で。きまり。わたしも国立やしお金出してもらうからなあと兄弟に決めました(コレは後々後悔)もともと上昇志向もないのに周りは優秀な人だらけの大学。なんとかやっていたものの周りは弁護士、国家公務員を目指してストイックに頑張っていく。わたしはしっくり来ないまま流されました。好きでもない法律とむきあって弁護士になりたいわけでもないのに法律。どっかでエリート道を突き進まなければというのがありました。イマサラ外れられない。ずっとストレートに来てしまった。頭がいいわけでもないのに周りからの評価を勝手に独りできにして。そうこうしてるうちにわたしはこの病気になりました。 またかきますが苦悶の結果、わたしはいっさいがっさいエリートの道をほおり投げました。どんだけ楽だったか。ほおりなげてからいろんな世界に出会い、机の上でない勉強たくさんして。なによりこの病気が最大の勉強で、試練で。 ずいぶん人生のかんがえ方とらえ方が変わりました。とちょっと自分のことになってしまいましたが、こういうことを経てたどり着いたシンプルな生き方について考えていたわたしにこの本は自然にしみいりました。なんだか裏付けされて、ちょっと自分のこの方向性に自信もつきました。最終的にはこういうシンプルな生き方をしたい。穏やかで堅実で静かな生活を送りたい。わたしの夢になりました。病気に出会ったことでみつけた本当の夢は今まで流されてきたわたしにとってはとっても大切で。つらさを経た後、そして今も闘う中で今まで以上にエリートとかどうでもいい。。。。毎日を笑っていきたい。いや、泣いてもいいけど幸せになりたいんです。 話がまとまらないなあ・・・とにかくいいんです!!!今、苦しいあなた、頑張りすぎてるあなた、自分を責めているあなたに是非読んで欲しい。 本を読み終えて感動したことを彼に話すと驚いたことに彼の一番好きな映画がこの小説を映画化したものでした。さっそく彼に映画を借りてみてみました。コレはその映画のレビューの抜粋です。2001年第24回日本アカデミー賞で、11部門の優秀賞を受賞、作品を含む主要8部門で最優秀賞を獲得した黒澤明遺稿脚本の映画化『雨あがる』。小泉堯史初監督作品ながら、その見事な演出に対する評価は、国内にとどまらず第56回ヴェネチア映画祭でも「緑の獅子賞」を受賞するなど、世界中で高い評価を受けた。それから2年、小泉監督が自ら選んだ小説「阿弥陀堂だより」を脚色し映画化したのがこの『阿弥陀堂だより』である。長野県での1年間にわたる長期撮影と、豪華なキャスト、優秀なスタッフが実現させた極上の映像世界は、監督自身が「爽やかに吹きぬける風を感じられる作品にしたい」と、語っているごとく清々しい作品として誕生した。東京で暮らす熟年の夫婦、孝夫と美智子。医師として大学病院で働いていた美智子は、ある時パニック障害という心の病にかかってしまう。東京での生活に疲れた二人が孝夫の実家のある長野県に戻ってきたところから映画は始まる。二人は大自然の中で暮し始め、様々な悩みを抱えた人々とのふれあいによって、徐々に自分自身を、そして生きる喜びを取り戻していく。 近年、経済不況やリストラ、高齢化社会、少子化といったニュースが連日のように報道され、多くの人が人生の進路に不安を覚え始めている。第二次世界大戦後、今まで一度も止まらずに走り続けてきた日本の社会が、全体に息切れをしているような時代。そんな時、自分が"生きている"ことをもう一度考え直すために、奥信濃に帰ってきた夫婦と、それぞれに悩みを抱えた人々の姿が深く胸の奥に残っていく。きっと、この作品が、いつのまにか遠くを見ることを忘れてしまった我々に、もう一度考えるきっかけをつくってくれることだろう。映画では自然が綺麗に描かれていて、美智子の病気についてはあまり言及がなかったものの作品としてはいい作品でした。心の葛藤はやはり小説でしょうか。映画もとても綺麗なので、、いやされるので是非見てみてください。 この作品はわたしに生きるヒントをくれました。バイブルにして前進したいと思います、