「ください」と言えばいいのに
たまたま家にあった立花隆「青春漂流」を読んだ。 インタビュー集で、知らない人がほとんどで「こういう人もいたのか」と思うことばかり。 もっとも驚いたのは、テレビでも人気になった猿回しの話。その調教が、猿に撮ってだけでなく、調教する側にとっても過酷なのだ。「昔、猿の調教をやっていて気が狂った人が三人いるんです」という言葉が出てくるが、本当にそういうことがあったのだろうと思わせられる。 ただ、気になる点があった。 ある人物の若いときの経験談として、その人の言葉が次のように書かれていた。一銭でも倹約するためにずいぶん苦労しましたよ。なんといっても食べるのに金がかかるので、下宿の近くのは賭けから野菜を失敬したり、お宮のおそなえものをいただいたり。交通事故で死んだ犬や猫の肉を食べたり、人の家の池の鯉をいただいたり、もうなりふりかまわず、なんでもたべましたよ 語った本人としてはただの思い出話なのだろうが、畑の野菜を盗まれた人、池の鯉を盗まれた人がどう感じているか、ということには全く意識が向けられていない。 まぎれもない犯罪行為なのに、著者はそのまま紹介している。著者にとっても問題にならないことなのだろう。 こういう話をただの経験談として紹介することが、盗みに対する抵抗感を弱めているのではないかと思うのだが、語った本人も著者もそうは思っていないらしい。 池の鯉はもらえないだろうが、野菜はけっこうもらえる。 野菜を作っている人がいるときに、「お金がないので、売り物にならない野菜があったらもらえませんか」と言ってみればいい。大量にあるので、売り物にならないものはくれるだろう。 家庭菜園でも、大量にできているときには、頼んでみるともらえる可能性は高い。 盗みを肯定するような内容の本になってしまっていることに、著者も編集者も気づかなかったのが残念だ。 表記で気になったのは、「おわる」の時は「終る」と送り仮名に「わ」を入れないこと。 「中学の終り頃」(p179)のように。 「終る」では「おわる」なのか「おえる」なのか区別がつかないではないか、と思っていると、「おえる」の時は「終える」(p272)と表記している。 著者には著者のルールがあるらしい。