『コールドゲーム』
「廣吉のほうが同情されてさ、俺らは罰を受けても当然の極悪非道のイジメっ子。殺されたグンペーだって何を言われるかわかったもんじゃねえよ。ほら、みんな好きじゃん、芸能人でも政治家でも、誰かを悪者にするの。よってたかって引きずり下ろすのがさ。北中ニ年三組と変わんねえ。どいつもこいつも大人も子供もイジメが大好きなんだ。他人の不幸を見て、自分の不幸を忘れたいんだ。自分だって崖っぷちのくせして、崖の下に落ちたやつに唾を吐くんだ。そして言うんだ。ああ、よかった、自分は崖の上の人間でって」(中略)「人のことは言えねえ。俺だって、そうよ。誰かにこっぴどく殴られると、他の誰かを殴りたくなったもんな。俺が世の中のどん尻なんかじゃないってことを確かめたくってさ」四年前に苛めていた相手から復讐の標的にされた少年が、自分の死を意識しつつ、過去を振り返って言った言葉で、荻原浩さんの小説『コールドゲーム』から抜粋してみました。自分の優位を確かめたくていじめる。大人数でだれか弱い人をいじめることも、自分の勢力を誇示するためなのかも。いじめてお互いの仲間意識を確かめるとか。いじめをやらかす人も、どこかで自分を崖っぷちだと感じているのかな?止まらない子供たちの飛び降り自殺・・・まさに崖から最後の一歩を踏み外す羽目になってしまったと考えると、上の文章は意図して作られたのではないでしょうが、残酷な一致を表しているみたいで怖いことです。そりゃ私だって、崖っぷちに立ったままなのは嫌だし、崖から転落するのはもっと嫌。でも、崖の上にかろうじて残っているだけなのに、崖から転落した人を見て自分の立ち位置を確認する自分は・・・本当に崖の上にいると、言えない気がする。だから、そんなことをしている自分もまた嫌。それに、崖っぷちから、もっと安定した大地まで行って、崖っぷちの人や転落した人に対して、無関係を装っているのも嫌。どうすれば、何が嫌でなくなるんだろう。崖から転落した人を助けること?それができるかって聞かれたら、今の私には「できないだろう」と答えるしかないんです。それもまた嫌、なんですけどね。