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カテゴリ:想い出
先日父が食事に来て、娘達に昔の横浜の思い出話をしていた。関所の内側だから「関内」で外の伊勢佐木町は関外、などの話を娘達も楽しそうに聞いていた。昨日それを思い出して関内から家内と待ち合わせている元町まで歩いてみた。
関内駅から常盤町に向かい、新井清太郎商店から横浜公園の角を曲がりYMCAを通り過ぎて中華街へと進むコースだ。 関東大震災で父の実家が潰れてしまった時、新井さんには大変世話になったと父が親から聞かされていた新井清太郎商店の新井ビルに、前日行った野毛の「鳥良」の看板があった。 野毛のお店もかんばっているなと、少し嬉しくなる。 ここいら辺に家があったんだ、と言われていたYMCA辺りを過ぎて横浜公園の周りを歩いた。父の出た横浜小学校は確かこの公園の中にあって、ここがお父さんが通った学校だよと言われた時はまだ校舎が残っていたような記憶がある。昭和23年頃廃校になったそうだが、いつ頃校舎を取り壊したのだろうか。 先日その横浜小学校の全卒業生が集まる会があったそうだ。80歳を過ぎてもデジカメを駆使する父が10年先輩と10年後輩を集めて写した写真を見た。呼びかけても集まってくるのは女性ばかりだったそうで、10年先輩が4名ほどいたが、とても90歳を過ぎているとは思えない、きれいで若々しい姿に驚いた。10年後輩はたくさん写っていたが、この方達あたりが最後の卒業生なのかもしれない。 中華街では(父はいまだに南京町というのだが)「徳記」を覗いてみた。父の同級生に「徳記」の地主さんがいるそうで、その友人と「徳記」にいっても特別扱されず、混んでる時は「ハイ!後ろに並んで」とやられるので大好きなんだと父がよく言っていた。昔二階の狭い部屋でコース料理を食べたことがあるが、ここの奥さんが「はい、ちょっと電気つけるよ」と言って円卓の上に乗って蛍光灯のひもを引っ張ったのには唖然とはしたが、不愉快ではなく愉快に思えたくらいだった。 関帝廟のそばの路地の奥に、昔ながらの佇まいに一安心した。一時マスコミで豚足ラーメンなるものが取り上げられていつも長蛇の列、すっかりご無沙汰だった。今日は全然並んでないと喜んだら何とお休み。そこで父に良く連れていってもらった「鴻昌」へ。これも父の話だが、むかし「鴻昌」ではお客がマッチをくれというと、勘定場に居る太ったおばさんが「はい、ここ」と指を指す。そこにはパイプ印の徳用マッチがおいてあってお客はわざわざそこまでたばこの火をつけに行ったそうだ。その「鴻昌」で子供の時に食べた玉子スープ、本当に美味しかったのだろう。それから何度も母に同じようなものを作ってもらった記憶がある。 でも中華街は凄い人出だった。平日に行くことが多いが多分休日並みの人出だろう。その後行った元町のお店で話を聞いたら、やはりみなとみらい線が開通してから毎日休日並みのお客さんの数だと言っていた。 中華街も元町も圧倒的に中年過ぎが多かった。この人達がくつろげるのは野毛のような街並みではないのかと考えてしまった。昨日「鳥良」に居たお客さんが、馬車道駅から野毛まで弁天橋方面の出口を使えばすぐですよ、と言っていたのを思い出す。 元町で、家内が今日はなんか安いみたいと店員さんに言ったら、みなとみらい線の開通を記念して、いつも2月下旬から始める「チャーミーセール」で出す値段を付けていますと答えていた。中華街でも関帝廟の周りで何か催しがあったようだ。 野毛でもみなとみらい線開通記念飲ん兵衛ラリーでもやればいいのになんて、外野の気楽さで考えてしまった。 家内が車で来てしまったので元町中華街駅の様子は見られなかっが、元町の駐車場の前にあるウチキパンの棚が4時には空っぽになっていた。多分予想を超える客数だったのだろう。野毛も千載一遇のチャンスと捉え、みなとみらい線を利用する客を呼び込めばいいのになどと考えてしまった一日だった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2004.11.25 17:52:20
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