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2006.09.12
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カテゴリ:希死念慮
漠然とした“希死念慮”は、

新薬を中止した頃から

溢れ始めた。







火曜日は診察日であるし、

今回は処方薬を組み立て直さねばならなかったので

医院へ行く心積もりであった。

けれども、起き上がることが出来なかった。

これではまた以前の状態に、

逆戻りである・・・。







計画としては、一応新薬を処方される前の

処方箋に戻して頂きたかったので、

母にその旨を伝えて、お薬を取りにいって

もらった。

母がお薬を取りにいってくれるようになり、

母と主治医にも繋がりが出来て、

これは良い兆候である。







医院では、処方が変わったらその効能と

副作用、診療内容や療養の心得が書かれた

用紙を渡される。

今回、“療養の心得”の欄に書かれてあったのは、



『こころを大事にする』



の一言であった。凄く心に染み渡った。

たった一言であっても、充分な重みがある。

病症で苦しんでいると、どうしても

『こころ』をないがしろにしてしまう。

しかし一番大切なのは『こころ』である事を

改めて胸に刻み込めた。







その『こころ』であるが、新薬を服用していた時には

見えなかった・・・と言うより見ようとしなかったものが

ある事に気付いた。それはやはり



“希死念慮”



である。







俳人に、尾崎放哉と言う人がいる。

明治時代の俳人である。

電話診察でこの人の有名な俳句を聞いた。

それは

『咳をしても一人』

と言うものであった。彼は結核を

患っていたのである。

この表現の仕方は、結核という当時は不治の病を患った

自分をもう一人の自分が見つめているものである。

そして私も同じく、『過食嘔吐をする自分』や

『希死念慮を抱く自分』をもう一人の自分が

見つめている形で様々な事を表現している。

そして小さい頃、喘息で高熱を出したり、

自家中毒で嘔吐したりしていた。

しかし母は傍にいてくれなくて、

嘔吐した時には心配される所か

父母から叱責を受けた。

それらにアナロジーを感じる。







話を元に戻そう。

新薬を中止して、感じるようになった暗くて重い

“希死念慮”は、唯一の支えともなっている。

『死』を思う事で、過食嘔吐等の苦しみから

解放されるような感じがしたり、あらゆる柵に

耐えられるのである。

どうにも行かなくなったら死ねば良いと・・・。

でも、『死ぬ事なく耐える』と言った必然性も

生まれてくる。

“過食嘔吐と向き合う自分”

“死を思いつつ耐える自分”


というものを、もう一人の自分が見つめている。

これも大切な一つのプロセスだと感じる。







新薬を中止して正解であった。

それに因って見ないように過ごしていたものが、

見えるようになったからである。勿論それは苦しいが、

向かい合い、考えるという行為も大切であると思う。

「もう何もかも如何でもいい」と全てを投げ棄てたくなる

時もある。しかし自分が自分である限りは、

色々なものを見つめて、思慮を巡らせる事は大切である。

偶には後退したり、逃げようとしたりしても良いと思う。

けれども最終的には、必ず自分と向き合わねばならない。

病気になって失ったものは多いが、得たものもある。

それを大切にしながら、こころを大事にして

寛解を目指したいものである。





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Last updated  2006.09.12 20:26:23
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