温かい眠りに吸い込まれる。
起床したら既に外は暗かった。かなり無理をしてカウンセリングと診察を受けた反動が出て、いつまでも温かい睡眠と蒲団に包まれていた。睡眠は良い。心身の疲れを柔らかく溶かしてくれる。目が覚めても、うとうと微睡みの中にいると、身体が軽くなっていくのを感じた。久し振りの徹夜と昼間からの外出の為、昨日は本当に体調がおかしかった。発泡酒を飲んでも全く美味しいと感じなかったし、煙草も不味かった。頭がぼんやりして文章も浮かばず、出来事だけを綴った昨日のブログは、表現したい気持ちを記せなかった。酷く疲れているのならお休みすればいいものを、「毎日欠かさず綴らねば」と言う観念の元、回らない頭から必死で文章を捻り出した苦渋の行為であった。睡眠をたっぷりとった今日は、頭もすっきりしている。ゆったりとした心持ちの中、自分の中身を、ほんの少し余裕を持って見つめ直せている。そしてコメントを下さった方々に随分元気付けられて嬉しく想っている。『カウンセリングを受ける』と言う事は、嫌でも自分の醜い部分が露呈し、それを言葉として口に出さなければならない。見ないようにしてきた傷口や、何重にも保護してきた嫌な気持ちを治療の為に露にする状態になる。だから、家に帰ってからがとても辛かった。傷口を広げたまま、その後を過ごさねばならなかったからである。私は歪んだ認識で“痩せ”を求めている事やどうして1日2回“過食嘔吐”をせねばならないのかと言う事、過去の古傷が実は未だに膿んでいるという事等をちくちくひりひりと身に沁みて感じるのである。それらに対して打開する策はない。傷は傷として、カウンセリングと診察といった対話と共に少しずつ再確認して癒す方向へ時間をたっぷりかけて癒していかねばならないのだと考える。そんな中、カウンセリングや診察は、一旦治りかけた傷をもう一度開く荒療治なのかも知れない。現に、昨日の夜中はPTSDの症状であるフラッシュバックが酷かった。頭を抱え、小さくなるしかなかった。疼く過去の傷口を見ないようにする為にやはり過食と嘔吐に逃げてしまった感が否めない。胃に詰まったものを排出する時、あらゆる辛い出来事が頭を占めて、『一緒に吐き出さねば・・・』と言う気持ちでその行為に及んだのである。先生方と会えて、直接対話をして安心できたり、温かい気持ちを与えられたりしたけれども、やはり反動や副作用は切っても切れないものであると痛感した。今は不思議な程にこころが落ち着いている。母の優しさを再認識できたので、改めて感謝の気持ちが溢れているからであろう。唯、11時から50分間のカウンセリングを行ない、12時から14時まで主治医との診察を行なった為にかなり疲弊した。しかし得たものは多かったと感じる。私は、カウンセラーに大量の向精神薬を預けている。いつでも死ねるように毎日持ち歩いていた頃があった。それを危惧して、カウンセラーに預ける事になったのである。それを昨日、「お預かりしているお薬、どうしますか? 僕の方で処分してもいいですか?」と問いかけられた。かなりの薬の量であるから、それが手元に戻れば“いつでも死ねる”という歪んだ安心感が得られるのである。なので一か八か「返してはもらえませんか?」と訊いて見た。けれども案の定、「僕は返してくれといわれても返せません。 死なれたら哀しいし残念だから」と言う答えが返ってきた。一旦返事は保留にしてもらったが、次回のカウンセリングでは「処分して下さい」と勇気を持って言おうと想っている。勿論心の隅では、あれだけの薬があったら楽に死ねるのに・・・。と言う想いは残っているが、今は生きていく事が目標である。だから決断しようと想った。昨日は大変疲れた1日であったが、収穫は多かった。少しずつ摂食障害者として足跡をつけ、軌道を残せている事実や今は物凄く辛くてもこの先はどうなるか分からない、未知の世界が待っている事実を実感できた事・・・それは幾許かの安心感をもたらした。自分の中だけで間違った形で昇華させようとしていた事も、カウンセラーや主治医によって軌道修正されて、少しは昇華の仕方を考えられるようになった。温かい先生たちの笑顔、温かい母の存在。私は大切なものを見極めて、治療に向けてまた歩き出したい気持ちが生まれた。