朝陽に包まれ、和らぐものは・・・。
寒いと何故か、笑ってしまう。もう、笑うしかないほど寒いからであろうか。勿論、外で笑う事などしないけれど1人、部屋で笑っているのも些か不気味であるから自身に微苦笑をもらしている。生きる事は即ち、葛藤の連続である。私の場合は、摂食障害・うつ病・強迫神経症の症状等が一度に現れると、こころが引き裂かれそうになる。「食べたい。けれど行動に移す気が起きない。」「食べたくない。でも食べねばならない。」両極端な想いに葛藤して境界線の上で私は、酷く戸惑う。生きていく上でも、本当は目標を持ちたい。そんな高い目標でなくていい。「美味しいね」と微笑み合い母と共に、ゆっくり食事を頂く事。でも私にとってこの目標はとてもハードルの高いものである。主治医は、「目標を持たない事が目標」と仰っていた。つまり、【今は無理をするな】という事であろう。そして、【成長モデル】に偏ってもいけない。病気を患っている限り、やらなければならない大切な事は、“養生してゆっくり心身を休ませる事”である。だから、自分を成長させる事ばかりに気を取られていると、心身は休まらなくなってしまう。力が充分に蓄えられて、動き出せる時に、成長する為の努力をしていけば良いのかも知れない。摂食障害を患っていると、“治す”為に成長しなければならないといった強迫観念、強迫行為に侵される。そうなると、葛藤は益々酷くなり、生きていく事自体が苦しくなってしまう。そういったところを、主治医は見越して仰っているのであろう。それよりも大切なのは、やはり【こころを豊かにする】事であろう。こころが豊かになると、今まで見えなかったあらゆるものが見えるようになる。気付けなかった事に、気付けるようになる。そういったプロセスを辿り、病気は“治る”のであろうと考える。だから、主治医との診察を受診する際、過食と嘔吐の状態は最初に少しどういう状態であるかを話すだけにしている。過食と嘔吐の回数が増えたり、それによって体調が悪くなったりしている時は、それなりに対処法を共に考えて下さる。だが、それよりも話し合いの中心になるのは、【如何にこころを大事にして過ごせるか】【どうしたら、心身が休まる状態になるか】【こころを豊かにするとはどういうことか】【病気が“治る”プロセスとはどういうものか】等といった事である。診察を受けている間・・・つまり主治医と話し合っている間は、それらの話を建設的に築き上げたり、または一旦崩してまた建て直したりという作業が行なわれる。でもこころの何処かで「人間として成長したい。」と想っている事は否めない。どうしてそれが無理なのかという事は分かっている。今の私は、生きているだけで精一杯だからである。まるで、綱渡りしているかのように生きている。歩んでいる。バランスを崩したら真っ逆さまに落ちてしまう可能性だってある。でも生きていられるのは、そんな細い綱の上を歩いているとしても、傍で私の両手を支えてくれている母の手や、主治医・カウンセラーの手が存在しているからであろう。落ちても怪我をしないように、ネットを張ってくれているのも私を支えてくれている人々のお陰である。綱渡りをしながら、生きている。若しくは、荊だらけで歩みを進める度、怪我をする道を歩いている。だが、私は1人ではない。怪我をしたら手当てをしてくれる温かい母の手がある。行き詰ったら助言を与えて下さる主治医がいる。暴走しない限りは、落ちたり転んだりする事無く怪我は最小限に抑えられ生きていく事は可能であろう。だが、それが難しくなる時がある。バイポーラによる気分の波がそれである。軽そう状態にあったのは、私が高校生から大学を卒業して働いていた頃までだったと想う。勿論、その躁状態の間に何度も奈落の底を見た。そこで私は過食と嘔吐を繰り返したりリストカットをしたりして無理矢理自分をコントロールした。うつ状態であると、高校や大学で勉強が出来ない。働いていた所は仕事が殆どなくてお薬の副作用で眠気が襲う。そういう時、自らをカッターナイフで傷つけた。もう、場所は関係なかった。カッターを手に取りトイレで傷つけたり仕事場で昼休み、1人になったとき、ぐっと皮膚を切り裂いた。ちゃんと処置グッズを持ち歩いているという用意周到な状態であった。あの頃は、自分を軽そう状態に保つ為己をずたずたにしていたのだと感じる。しかし、その張り詰めていた糸は、或る日ぷつりと切れた。そこからいつも、うつ状態である事が当たり前になった。主治医曰く、「うつ状態である事の方が当たり前なんだよ。 無理矢理テンションを上げると疲れるだけ。 本来なら、“ちゃんとうつ病を生きる”という 状態になって欲しい。」という事であった。うつ病は、言葉で言い表せないほどの辛苦や、無力感で侵されるものである。だが、ストンとうつ病の病症を体験して治るプロセスを踏むと、以前の自分に戻るのではなく、病気が治った新しい自分になるという事なのである。抑うつ感が酷いと、何も食べたくないと想うのに、こころや身体は何故か過食と嘔吐に走る。これは、一種の防御反応なのかも知れない。堕ち過ぎてしまうという事がまだ私は怖いから、食べる事で一切の思い煩いを忘れ、吐く事でこころに溜まった仄暗い感情を身体から出しているのであろう。病気が治るプロセスは見えるような感じがするが、見えない。毎日2杯、相変わらずブラッディメアリーを飲んでいる。少しずつウォッカを多くしているけれど、トマトジュースの味と喉越しがとても心地好いので大好きなカクテルとなった。沢山、黒胡椒の荒引きを入れてグラスはスノウスタイルにしている。その香辛料や塩が、トマトジュースの甘さをほんのり際立たせている。こういった比較的カロリーの低いカクテルを飲んでいる時や、ぼんやりと紫煙を燻らせている時が一番落ち着いていると感じる。また、ホットミルクティの優しい甘さがこころを癒す。母と、他愛ない話をしながら笑い合い、買い物をしたり家の中で一緒にTVを観たりしている時間は快く感じられる。“ひとり”の時間を何となく楽しみ、母と過ごす時間を大切にできる事。こういった何気ない日々の所作がもしかしたら、病気が“治る”プロセスの一部となっているのかも知れないと想う。どんなに寒くても、母はビールを私は発泡酒を飲む。お互い、季節を問わずキンキンに冷えたものを好む。だから私はすぐお腹を下してしまうのかも知れない。家には炬燵がないので、母はホットカーペットの上でお蒲団を被り食事をしながらビールを飲む。私は、ヒーターの温風を間近で受けながら冷たい発泡酒を飲み、ブログを綴る。焼酎のお湯割りや日本酒の熱燗も飲めない事はないけれど、発泡酒より酔いが早くまわるので避けてしまう。身体を中から温めたいときは、至極カロリーの低い、インスタントの“松茸のお吸い物”をゆっくり飲む。固形物は避けてしまうが。日々、小さな事から何かが変わっていく。小さすぎて気付かない事でも、1ヶ月前と比べたらいくつか変化したものを発見できる。それが果たして良い事なのか悪い事なのか分からないものも多いけれど、それらがやがて、【心の豊かさ】に繋がっていく事を願ってやまない。自分のペースを掴むのは案外難しい。焦ったり、鈍かったりと想うように過ごせない方が多い。でも、今は病気が治る過程にいるのだという事を胸に刻み付けたい。