一難去ってまた一難・・・。
黄昏に染まる景色を見ながら夕風に吹かれて暫しぼんやりとした。ふと桃の木をみると熟れた桃の実が幾つか落ちていてその香りはとても芳醇で甘いものであった。蟻がもう食べていたけれど人間は食べられないのが残念である。また眠る前に過食と嘔吐をして気力を振り絞って後片付けをこなし朝方、眠った。この悪癖がいつの間にか常習的なものとなってしまうのではないかと恐れている。此処のところ自分が太っているように感じ、苦しい。ジーンズは相変わらずぶかぶかだし、腹筋なども毎日欠かさないのでお腹もポッコリ出ることは少なくなってきているが自分よりも細い人をスーパーで見かけると何ともいえない気持ちになる。ついつい、その凄く細い人と自分を比較してしまう。私の腕の血管は浮いているか見てみたり骨の浮き具合を確かめたりしてしまう。私は、人と比較することが好きではない。人それぞれの人生があり、ぽっちゃりしていても凄くお洒落で可愛い人なんてとても沢山いる。お笑い芸人の柳原可奈子ちゃんは、明るいし、優しいしお洒落だし、凄くキュートだと想う。他人に関しては、たとえぽっちゃりした体系でも楽しく笑っていて活力に溢れみずみずしい生気を放っているからそれは素晴らしいと想う。だが、私はそれを自分に当て嵌める事が出来ない。「私は痩せなければならない。」「もっともっと痩せねばならない。」という考えに雁字搦めの状態である。だからなのか、凄く細い人を見ると羨ましいという気持ちが溢れてしまう。人と自分を比較なんてしたくないのに自分はまだ痩せねばならないと思い込んでしまう。これも悪癖である。早くこんな考えを頭から追い出さねばならない。弟にも、その事に関して言われた。「姉ちゃんの事、俺の友達に 見せたら、10人中10人が 痩せすぎで気持ち悪いって言うよ、絶対。」その言葉を聞いても、納得できない。それがこの病気の症状でもあるのだから仕方が無いといったらそこまでになってしまうが、この認知の歪みも段々と酷いものになってきていると感じざるを得ない。痩せる為に、甘いカクテルを毎日飲むのは止めようと決意した。シェイカーを振るのは好きなのでブラックコーヒーにゼロカロリーのシロップを入れて胃を守るためミルクも少し入れてノンアルコールカクテルを作る事にした。酔った感覚が欲しいときは、そこにウォッカを入れてもいい。でも、当分はそのノンアルコール・低カロリーの飲み物で氷をたっぷり入れて昼という時間を過ごす事にしようと想っている。さっき、妹から母の携帯に電話があった。突然母が「え??嘘!!」と大きな声を出したので妹が事故に遭ったり姪が大怪我をしたりしたのではないかと胸が締め付けられた。偶然居合わせた弟もそう感じたようである。しかし、よく話を聞いてみたらなんと、妹がデパートのATMにお財布を置き忘れて紛失してしまったのである。お財布の中には、現金も保険証もキャッシュカードも入っていた。それに、あくどい人間がそれを盗ってしまったなら保険証を持ってサラ金へ行ってお金を借りられてしまうという危惧もある。取り敢えず、警察に連絡をしてキャッシュカードなどを使用中止にして保険証の番号も伝えて対処を図ったようであるが、本当に心配で堪らない。最近、余りにも良くない事が起こり過ぎていて目が回りそうである。母がダウンしたり妹の持病の悪化、姪の病気そして私のPCが壊れてこころも崩れてしまった事。悪い事が重なり過ぎている。母も私も妹も精神的に追い詰められている感じがする。“一難去ってまた一難”という状況である。楽観的に言えば此処まで悪い事が続いたんだから次は良い事が続く筈・・・と感じられなくもないが、さすがにこれ程まで厭な事が続くと参ってしまう。妹のお財布が無事に見つかる事を願って止まない。毎日の過食と嘔吐は回数こそ変わっていないけれどその時間帯は変わった。昼間の過食と嘔吐が1回になった事は、精神的にも肉体的にも楽である。問題は、夜であり眠くて仕方がないのに食べ始めてしまう自分が、凄く悔しく憎らしい。そこには「早い時間に眠ってしまったら 朝早く起きてしまい、 朝から過食と嘔吐を してしまいそうで厭だ。」という考えもある。いつもいつも少し先の未来を懸念したり悩んだりしている。また、その考えに囚われて自由に動く事も出来ない。これはとても哀しい事だと感じる。「明日は明日の風が吹く。」「que sera, sera」という考え方を身に付けたいものである。過去にも縛られて少し先の未来にも縛られるなんて余りにも不自由で度量も狭くなってしまう。もう少し大らかなこころを持ちたいと願う。“摂食障害”という病のカテゴリーの中に自分が自分で縛り付けているという事を痛感している。しかし、その病症があるからこそ今は、生きる事ができている。過食と嘔吐をしなくなったら私は極端に拒食状態となるであろう。こころの中で複雑に絡まりあっている糸。これを主治医やカウンセラーと共に“話し合う事”その言葉を通じて少しずつ解す作業が必要なのだと感じる。時間はかかるかも知れない。途中で自分のこころの中を見つめるのに疲れるかも知れない。だが、諦めたくはない。時に休憩をしたり避難場所に逃げて心身を守る必要もあるけれど時間は着実に誰の元にも平等に過ぎるもので夜が来たら、朝が来る。毎日の行動を無駄な時間だと想わないでこれもきっと前に進む為の何らかのきっかけとして受け止められたらと考えている。焦らず、少しずつ毎日を過ごしたいものである。