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テーマ:教育問題(326)
カテゴリ:教育について
《教育の本旨は、ただ知識を増やすことにあるのではなくて、人が人であるための共通の規範を学ぶことにある。 学窓(がくそう)を去った人たちが、何年かしてしばしば述懐することは、自分が学校教育で学んだ知識の内容ではなく、いろいろな友だちとの交際であり、先生たちの人生訓であることが多い。やはりそれは教育というものが単なる知識の追求ではないということを示している。 家庭においてはもちろんであるが、学校においても社会のルールとして守るべき基本を考え、社会人として生きていくための共通の規範教育に何故、今の学校は臆病なのだろうか》(加藤寛「教育荒廃の根源にあるもの」:世界を考える京都座会編『学校教育活性化のための7つの提言』(PHP研究所)、p. 56) 私なら、教育の本旨すなわち真の目的を、〈共通の規範〉に限定せず、「日本人としての共通性を高めること」とでも言うだろうか。日本人として最低身に付けておかねばならないことを学ぶということである。知識的なこともあれば、道徳的なこともあろう。言葉を学び、文化や歴史を学ぶ。そして、日本社会を成り立たせている、目には見えないが確(しか)と存在する「法」(law)を学ぶということだ。そうした共通の基盤の上に、社会の自由は機能する。 《“抜本的な改革”という言葉がしばしば使われているけれども、教育改革は非常に多くの問題を含んでいる。したがって抜本的な教育改革というものはあり得ないのだということを、まず認識することが、教育改革の原点であり、教育側の自由化・競争化こそが本来の姿である》(同) フリードマンは言う。 《われわれは、競争原理を導入しさえすれば、学校教育はアメリカの全階層に開かれ、教育の質も大幅に改善されると確信している。 残念ながら、先の見通しはよくない。政治家の反応をみると、現状維持を求めているのがよくわかる。国民が抗議をするたびに、教育関係機関からはいろいろな報告書が出されてきた。だが、どれもこれも、レーガン大統領の教育諮問委員会の報告書と似たり寄ったりだ。つまり、現行制度の構造は是認し、教育委員会や校長や教員に、今までと違うことをもっとうまいやり方で行えと強要しているだけにすぎない。そのうえ、教育制度の改善には何と費用がかかることかといって、お涙頂戴の茶番を演じてさえいる。 真の改革は、これとは全く別物である。私立学校の中には、教育の質は公立よりずっとよく、費用も半分以下ですむところも多い。学校教育についても、民間市場でやれる仕事を政府がやると2倍の費用がかかるという一般法則が当てはまるわけだ。肝心かなめの問題は.教育費をつり上げることではなく、消費者、つまり学生と親を王様の座に戻すことなのである》(ミルトン・フリードマン『奇跡の選択 自由経済をはばむものは何か』(三笠書房)加藤寛監訳、pp. 264f) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.10.27 20:00:12
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